桶川の将門展へ行ったついでに、足立遠元の屋敷跡をチェックしてきました。

桶川老人福祉センターの敷地内に石碑がありました。

武蔵武士といえば、畠山重忠や熊谷直実が思いうかびますが、
足立遠元(アダチトオモト)の名はあまり知られてないでしょうね。
私も「中世武蔵人物列伝」を読んで知りました。
因みに足立遠元の娘は畠山重忠に嫁いでいます。
又、足立遠元の妹は比企能員の子・時員に嫁いでいます。

お互いに有力武士と姻戚関係を持つことで勢力を広げていったんですね。


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伝足立右馬允(ウマノジョウ)遠元館跡碑

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足立遠元は源氏の家人で、平治の乱に武勇と友情の誉れを挙げ、
頼朝の公文所設立には寄人に登用され、やがて勲功十人の一人として
左衛門尉(サエモンノショウ)に任じられた鎌倉幕府の宿老である。
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この碑は、当市出身の岸義弘氏が寄贈されたものです。

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埼玉の旧足立郡~東京都足立区のあたりを本拠とした豪族です。
足立遠元の父・遠兼の代には、足立郡司を務めた名門です。

1159年平治の乱で源義朝に従って参戦した。
この時の活躍で、右馬允という官職を得ている。
頼朝の代には、左衛門尉(サエモンノジョウ)に任官している。

「平治物語」には、足立遠元のほかに、斉藤別当実盛、岡部六弥太、
猪俣小平六信綱、熊谷次郎直実、金子十郎家忠などの
武蔵武士の活躍が記されている。


金子家忠は先鋒を務め奮戦したが、矢を射つくし、弓が折れ、太刀も折れて往生していた。そこへ近づいて行ったのが足立遠元。遠元も予備はなく近くの郎党の太刀をとって渡した。
「かかる軍の 中にして 太刀を金子に とらせける 心の内こそ やさしけれ」


源氏軍は奮戦むなしく敗れ、義朝は討たれ、頼朝は伊豆へ流刑となった。
1180年、頼朝が挙兵したとき、武蔵武士の中で最も早く駆けつけている。
鎌倉に公文所(行政文書取扱い機関)が創設されるが、
遠元はここの役人に選任された。
京都出身の者が多く、関東の御家人代表として参画し、
行政事務にも長けていたことがうかがわれる。

以上「武蔵人物列伝」より抜粋



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桶川市の隣、上尾市が足立遠元についてまとめたサイトがありました。
(写真の石碑から50mほどで上尾市になります。)



遠元は足立郡内に元春、元重、遠継、遠村、遠景の5人の子息を配置し、子孫が代々その地を支配した。
嫡子(家督を継ぐ子)元春は遠元の足立氏館に居住した。
元重は草加市と足立区の境である淵江郷を開発して淵江氏を、
遠継は川口市平柳を開発して平柳氏を、
遠村は桶川市川田谷を開発して河田谷氏を、
遠景は市内畔吉地域を開発して畔吉氏を名乗った。

畔吉遠景の子・遠連は、京都御所を守る滝口武士となった。その後、遠元の子孫は丹波国(兵庫県)へと移住し、戦国時代まで活躍することとなった。

丹波あまごの里として有名な丹波市青垣町には、全人口のうち約4割の3,300人が足立氏を祖先に持ち足立氏姓を名乗って、足立氏の歴史と文化を守っているそうです。



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桶川市川田谷
かわいい名称の歩道橋だったのでパチリ。


今回は以上です。

(^_^)/~

コメ欄閉じてます。