長野県佐久市に平賀の里がありました。
 
 
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平賀村は、平賀氏発祥の地として知られる旧村です。
今は佐久市平賀になってます。
 
源氏の名家平賀氏は中世の豪族で佐久郡平賀郷を領した。
源光義(新羅三郎光義)の長男・盛義は平賀冠者と称し、平賀城を築いた。
盛吉の子・義信とその子・朝雅は二代にわたって武蔵守を務めた。
 
 
この神社の前には、城山小学校があり、
この日は運動会のアナウンスや元気な子供たちの声が流れていました。
 
平賀城址は大林寺から東側にある山、
登っていくと城址の看板があるそうです。
 
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平賀義信
平治の乱では最後まで義朝に従い戦った。
1184.頼朝の推挙で武蔵守に任じられた。
1185.義朝の遺骨を南御堂の地に埋葬するとき、特別に参列を許された。
奥州藤原氏討伐に従軍。
頼朝の子・頼家(二代将軍)の乳母夫であった。
実朝(三代将軍)の元服の時、加冠役を務めた。
 
模範国司と賞された武士だった。
 
 
 
 
平賀朝雅(ともまさ)・・・・・山中崇さん演じる
義信の子で、朝政とも書く。
執権北条時政の後妻・牧の方の娘婿となる。
武蔵守・右衛門権佐を歴任。
比企氏の乱では、比企氏との深い関係を有するも討伐に加わった。
1204年伊賀・伊勢の平氏残党の追討に成功し伊賀・伊勢両国の守護職になった。
自宅での酒宴の席で、畠山重忠の息子・重保と口論となった。
朝雅は北条時政夫婦に訴えて、翌年、畠山親子は謀殺された。
その後、牧の方が朝雅を将軍にしようと企てたが露顕し、
朝雅は松坂のあたりで殺された。
 
数奇な運命をたどった武士でした。
 
 
 
 
年表でその他の武蔵武士の流れも一緒に見てみました。
 
鉛筆   鉛筆   鉛筆
 
 
 
 
 
平賀氏のその後
 
 
平賀義信の弟・有義の子孫は、越後国を拠点とし、金津氏の祖となった。
 
義信の長男惟義は、伊賀国に赴任した時期に大内姓を称した。
1221.承久の乱の前に惟義はなくなったので、子・惟信が、
幕府軍と戦うがあえなく敗戦し消息を絶ち、
ここに源氏御門葉平賀・大内氏は滅亡する。
 
義信の五男・景平は土肥遠平の養子となった。後に小早川村に住み小早川と称した。
 1206年、所領の安芸国沼田荘を嫡男の茂平と次男の季平に分割相続させた。
また、三男の景光に相模国成田荘内の飯泉郷(飯泉氏)、
四男の時景に小松を譲った(小松氏)。
 
 
 
 
平賀惟義が相模守をしていた、
義信の子・小早川も相模国を領していたことがある。
 
由来はわからないが、
平賀神社には大山灯篭が1805年に建立されていました。
 
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追記2017.5.21
ここは佐久なので石尊山は軽井沢町の浅間山石尊山かもしれません。
でも、雨降山石尊大権現なので、やはり大山とのつながりはあるでしょうね。
 
 
 
2016/9/30、佐久地方訪問カメラ
 
 
 
 
(^_^)/~