先日記事にした茂左衛門の資料館に、

「高橋お伝」の物語が展示されていた。

沼田領下牧(現在は水上町)出身の女性で、最後は殺人の罪で斬首された。

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説明もありました。

あるサイトを見たら、少し内容が違っていました。

お伝は上野国利根郡下牧村(現在の群馬県みなかみ町)に生まれています。
慶応二年に波之助と結婚しています。
仲の良い夫婦だったと伝わっていますが、波之助が病を患い働けなくなってしまったため、田畑を手放し東京に出ています。
しかし浪之助の病状はどんどん悪くなり、明治五年に浪之助は亡くなってしまいます。
芝居や小説などではお伝が浪之助を殺したと描いているものもありますが、それはお伝を毒婦に仕立てて物語を面白くするための作家が行ったフィクションです。
その後、お伝は妾となったり体を売ったりして生活していたようですが、遊び人の小川市太郎と出会い同棲を始めます。
市太郎を養うために金策に走り、明治九年、古着屋の後藤吉蔵に借金の相談をし、約束を破った吉蔵を浅草の旅籠で殺害し、数日後に逮捕されています。裁判所はお伝を故郷の下牧村預かりにしようと打診しましたが、村は受け入
れを拒んだため、明治十二年一月三十一日、斬首の刑に処されています。

刑を執行したのは八代目山田浅右衛門の弟・山田吉亮でした。
山田吉亮は十七年間で三百人あまりを斬っていますが、お伝のことを「手前が手がけた女のうちでは一番のしたたかもので、その大胆さには驚きました」と語っています。
山田吉亮によると、死ぬ間際まで小川市太郎の名を叫び続けていたそうです。

お伝の遺体は小山内薫の父で軍医の小山内健によって解剖され、髑髏は漢方医の元で保存されたという話が伝わっています。
また、お伝の性器は解剖の際に切り取られ、ホルマリン漬けにされて陸軍医学学校に陳列されたという話も伝わっています。
清野謙次博士がお伝の性器について写真つきの詳しい資料を残しており、今でも国会図書館で見ることができます。
『阿傳陰部考』というタイトルの本で、ホルマリン漬けのお伝の性器の鮮明な写真が二枚掲載されています。
写真を見た瞬間、こんな写真を掲載してよいのかと大きな衝撃を受けました。
苦手な方には決してお勧めできませんが、現在では考えられない非人道的なことがまかり通っていた明治という時代を知る上では、意味のある資料だと思います。

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㊨ 夫がライ病に羅漢し、その治療のために東京へ移り住んだ。
㊧ 夫が病死後、博打打の一太郎に惚れて同棲していた。


お伝の生い立ちは恵まれてはいなかった。
お伝の母は、ある藩(多分沼田藩)の家老に手を付けられた上に捨てられ、
お伝を身ごもったままで結婚したので、嫁ぎ先でも上手くいかず早くに
亡くなってしまいました。そのため、お伝は厄介者扱いされて、親戚の高橋家に養女に入り、そこから嫁に行きました。
夫は高橋浪之助、仲睦まじく暮らしていたが、夫がライ病(ハンセン病)に罹り、この時代は伝染病とされ忌み嫌われたことでしょう。

お伝は取り調べで、仇討だと言ったそうだ。
吉蔵の妾をしていた義姉も、夫浪之助が死んだのも、吉蔵が毒を盛ったから死んだと。だが、それを認めてもらうことはできなかった。

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茂左衛門地蔵の方がお伝の生家を教えてくれた。

お墓は、谷中天王寺境内にある。
お伝の墓は、明治十四年一月、お伝の三回忌に仮名垣魯文が世話人となって建てたもので、協力者の多くは新聞社とか芝居関係者であり、いうならばお伝を飯の種にした人々の謝罪の意がこめられているそうだ。 


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高橋お伝についてのサイトはいくつもあり、どれがほんとかわからないが、
不幸な境遇で育ったお伝さんが、好きになった男性の名を最後まで呼びながら刑に処された。健気に生きた女性だったと思う。

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