2020.9 書庫を変更しました。
幟織姫の石仏があると知って、小剣神社に参拝して来ました。
(2014/10/12)
東松山市早俣 都幾川と越辺川の合流点にあります。
小剣神社
左の小さな石仏が幟織姫です。
右側面に、安政5年(1858)の造立で高さ70cm程の大きさです。
右は天神社 寛政5年の建立。
幟織姫、垂れ幕に太神と刻まれています。
幟織姫太神、糸巻きを持っていますね。
こんな言い伝えが残っています。
ある大嵐の晩に、村の和尚が一人娘を助けました。
その娘は、助けていただいたお礼にといって、三日三晩のうちに蓮の茎からとった糸で
その娘は、助けていただいたお礼にといって、三日三晩のうちに蓮の茎からとった糸で
お曼荼羅(まんだら)を織ってさしあげましょうと言いました。
「ただし、織り上がるまでは機織小屋を決して覗かないで下さい。」と約束して機織りを始め、一日、二日と過ぎました。
三日目の晩となると好奇心にかられた和尚は、とうとうがまんができなくなり、小屋の中を覗いてしまいました。
三日目の晩となると好奇心にかられた和尚は、とうとうがまんができなくなり、小屋の中を覗いてしまいました。
なんと小屋の中で機を織っていたのは、娘でなく大蛇だったのです。
すると、小屋の中が急に真っ暗になり、中から娘が現れました。
すると、小屋の中が急に真っ暗になり、中から娘が現れました。
そして、「約束を守っていただけなかったので、もうこれ以上はお曼荼羅を織ることはできません」と言ったかと思うと、
突然黒雲が湧き起り、娘の姿は見る見る消えてしまい、
あとには、それはみごとな阿弥陀三尊早来迎のお曼荼羅が残されていたということです。
この曼荼羅は、高坂地内の高済寺に大切に保存されているそうです。
この大蛇の化身としての娘への供養か、あるいは、
その昔早俣の各農家では若い娘が機織りをしていたので、養蚕・機織りの繁栄を祈願したものかもしれません。
安政の頃、早俣の西部にあった大沼のそばに立てられていたものが、
明治43年の大洪水で大沼が埋もれていまい、山王様の敷地に移り、
その後、早俣地区の耕地整理により、現在の小剣神社に移されたそうです。「東松山市歴史寸描」より抜粋
こちらは弁天社だとおもわれます。
弁財天の眷属である十五童子が彫られています。
牛馬童子・・・・・牛や馬を牽いて立ち博労の役目をする
生命(ショウミョウ)童子・・・・・剣と宝珠をもち煩悩を払い悪魔を遠ざける
愛敬童子・・・・・ふりかかる災悪を退治し、心を射止める役もある
蚕養(サンヨウ)童子・・・・・お蚕を入れた器を持ち、養蚕農家・繊維に関わる職業の人たちの願いを叶える。
酒仙童子・・・・・酒壺を置き、柄杓と宝珠を持っている。酒は百薬の長、宝珠は願いを叶える霊力をもつ。
...・・・摩耗しているので、判断はできませんね。
神社の入口には、レンガ造りの樋管
土手の向こう側には、馬頭観音もありました。
明治10年建立で、台石には嶋田路、坂戸路とも記されていて道しるべでもあったようです。
お付き合いありがとうございました。