玉淀ダム
 
関越花園インターから、R140を秩父方面へ進みます。
皆野寄居バイパス(有料道路)にはのらず直進し、末野交差点を左折すると、折原橋になります。
折原橋から上流を見渡すと、玉淀ダムが見え、6門の水門は右から1~6の番号が割りふられています。
玉淀ダムの上流は長瀞渓谷へとつながっています。
 
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玉淀ダムは一級河川荒川に建設されたダムです。
高さ32mの重力式コンクリート・ダムで灌漑・発電を目的としています。
ダム湖(人造湖)の名は玉淀湖と言います。
 
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昭和22年のカスリーン台風による水害を機に、荒川上流の二瀬ダムが昭和36年に完成し、昭和37年、玉淀ダムが着工され昭和39年に完成しました。
埼玉県企業局は平成20年、東京電力グループの東京発電に売却している。
 
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フェンスの中は立ち入り禁止です。あたり前田のクラッカー、古いねー。
 
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ダム湖、色んなものが浮かんでいます。もっと汚い所はカットしました。
 
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ハイキングのコースにもなっていて、向こう岸まで歩いていけます。
自転車は禁止。
 
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ダムの中央から下流は、こんな風景です。
手前の赤いほうが皆野寄居バイパス、その向こうの橋が折原橋です。
 
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魚釣り?
 
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折原側から見たダム湖
 
 
 玉淀ダムを撤去し、自然本来の川を復活させようという運動が起きて、
2008年、玉淀ダム撤去促進期成同盟が結成されました。
しかし、撤去工事に170億、農業用水の付け替えに100億、発電事業者への補償も多額、
埼玉県としては消極的な姿勢を見せています。
 

玉淀ダムの湖底には、筏のつなぎ場、筏師の泊まり小屋もあった。
今は沈んでしまい、当時を彷彿するよすがもない。
ダムの向こう岸(折原側)に住み、長年庄屋をやっていた黒瀬家は傍ら筏継宿を営んでいた。
黒瀬家の平八郎さんの話では、不作で米や麦がとれない時、年貢の代わりに竹を納めてもらったこともあるという。それを筏に利用していたそうです。
 
その昔、この荒川は秩父の産物である材木・石材・薪・木炭などの運び出しに筏や舟による水運交通として、長い間利用されてきた。中世の時代にさかのぼれば、武蔵武士の供養塔として、板碑の原材である秩父青石を広く関東一円に運び出した。江戸時代に入ると、江戸の繁栄とともに、秩父山地の森林資源が江戸市中へと運ばれ、用材の供給地として、川下げ、筏流しといった仕事が盛んになってきた。
やがて、陸上交通の発展により、荒川の水運も終息期を迎えた。
 
道路は明治25年、熊谷-寄居-秩父間の荒川沿いの開通。
鉄道は明治44年、熊谷-寄居-皆野の秩父鉄道開通。大正3年に秩父まで開通した。
 
長い歴史の上に今があります。
行きたい所、どこへでも行ける今はとても幸せで有難いことですね。
 
今回は、玉淀ダムと荒川水運を合わせて見ました。
ご覧いただきありがとうございました。
 

おまけ
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今日はチューリップの球根を植えかえて、ニゲラ・千鳥草・矢車菊・ルピナスの種を播きました。
春が楽しみです。