ー第6信ー
偉大な帝国
「日本人の町は下にあり、目新しいものは数えきれないほどあります。・・・日本は非常に古いものと精緻な文明とをもつ偉大な帝国で、珍しいものがそこかしこにあり、まるでよその星に来ているようです!」
横浜の清国人
「横浜では小柄で薄着でおおかたが貧相な日本人とは全く異なった種類の東洋人を見ない日はありません。日本在住の清国人2500人のうち1200人以上が横浜に住んでおり、もし突然いなくなるようなことがあれば、商取引はたちまち停止してしまうでしょう。ここでも他と同じように、清国人移民は必要欠くべからざる存在となっています。まるで自分は支配する側の民族だというように、泰然自若とした態度で体を揺らしながら通りを歩いています。清国人は背が高くて体格がよく、重ね着をした上に錦織の立派な上衣を着て、足首のところを絞った繻子のズボンをわずかにのぞかせ、先のやや反った黒繻子の高靴をはいているので、実際の背よりさらに高く見えます。頭はほとんど剃ってあるものの、後頭部の髪は黒い巾着紐と共に膝まで届く弁髪に編んであり、その上には、グッと後ろ寄りに黒繻子の硬い縁なし帽をかぶっていて、この帽子をかぶらない姿を見ることはありません。顔はとても黄色くて、黒い目は長く、眉はこめかみに向かうにつれて上がっています。顎髭はその痕跡すらなく、肌はツヤツヤしています。あくまで裕福そうに見えます。外見は不愉快ではありませんが、天上人たる清国人として相手を見下しているという感じがします。商人の事務所で何かを尋ねたり、店で金貨を札に両替したり・・・すれば、必ず清国人の本性が現れます。町中ではさも用事のありそうな表情で体を揺らしながらそばを通り過ぎて行きます。人力車に乗ってぴゅっと通り過ぎて行く時は、商売に没頭している時です。生真面目で信頼でき、雇い主から金を奪うより搾り取る方が満足できるー彼の人生の唯一の目的はカネなのです。カネのためなら、勤勉にも忠実にも禁欲的にもなり、ちゃんと報われるというわけです。横浜に着いて1時間もしないうちに、人は「買弁」という新しい言葉を耳にします。清国人が自信を持っているのはこのバイベンとしてであり、商売においてはこの外国人社会の支配力が大事なのです。それぞれの会社には清国人バイベンがおり、雑役夫であったり、仲買人であったり、ときには暴君であったりします。日本の生産者は、多くのブローカーですら、外国人商人とは一度も顔を合わせませんが、取引はピジン英語にピジン日本語ができ、さらには漢字の知識もある清国人を通じて行います。清国人は雇用者の思惑にはある程度反して、商品の調達と販売、人夫の手配と支払い、お金の両替などを行います。彼が合法的な「中間搾取」と見なしているものをめったに惜しまない外国人商人からは信頼されていますが、清国人は日本人からなににつけても「中間搾取」をする上、日本人は清国人の強欲さを防ぐ手立てを持たないので、日本人ディーラーからは忌み嫌われています。バイベンでない清国人は両替商、ブローカー、ホテルのフロント係で、いつでも横浜の金融活動にブレーキをかけられる力を持っています・・・金融に関する疑問は、洒落た身なりの、落ち着き払ってやけにくつろいだ清国人に聞かないことには知りようがないのです。日本人の織り目正しさはその態度や表情がほとんど卑屈なほどで、清国人は横柄といっていいくらいに唯我独尊です。生きている間は、死んでしまってからもそうであるように、だれにもなにも負い目を持ちません・・・不運にも生きて自国に戻って財産を使えない場合は、自分の遺骨が自国で休めるよう手筈を整えます。清国人ほど勤勉で景気のいい外国人は日本にはいません。」
褒めてるのか貶しているのかどっちなのか錯覚に陥る文章が面白い😆
中国人と日本人の気質の違いは今も同じ。他国との外交面でも、中国は横柄で唯我独尊、日本はへつらっているイメージ😅
この清国人たちが残って横浜中華街を作ったのかな❓
<明治初期の横浜で、欧米の商館と日本人商人の間に入り、言語や通貨の仲介を行っていた清国人ブローカー(「買弁(ばいべん)」や両替商と呼ばれた人々)は、日本と欧米双方の貿易に不可欠な存在として強力な金融支配力を持っていました。しかし、明治時代が進行するにつれて、彼らを取り巻く環境は大きく変化し、最終的には「日本人の直貿易化」と「戦争・災害」によって、貿易ブローカーとしての役割から、現在の中華街へと繋がる「独自のコミュニティ・商業形態」へとシフトしていきました。
彼らがたどった主な結末と経緯
1. 圧倒的な金融支配から「日清修好条規」による合法化へ
幕末から明治初頭にかけて、まだ日本語も英語も十分に話せない日本人商人と欧米人の間で、ピジン言語(混成言語)や漢字の知識を駆使してすべての取引を牛耳っていたのが清国人ブローカーでした。当時は欧米商人の「お抱え(買弁)」という名目で日本に滞在していましたが、1871年(明治4年)に日清修好条規が締結されたことで、正式に清国人としての入国と居住が認められ、横浜の華僑人口は急増しました。彼らは両替商や貿易ブローカーとして、横浜の金融活動を左右するほどの力を持っていました。
2. 日本人の「直貿易(脱・買弁)」による排除
明治中期に入ると、日本の政府や商人(三井物産などの総合商社や横浜正金銀行)が、「外国人に握られた商業の実権を取り戻す」という目標を掲げます。
・日本人自身が英語を学び、海外と直接取引(直貿易)をするようになる。
・三井物産の益田孝らが「買弁廃止」を打ち出し、自社で清国商業見習生を養成して直接中国市場へ乗り出す。
これにより、欧米商館に寄生してマージン(中間搾取)を得ていた清国人ブローカーの必要性は徐々に低下していきました。
3. 日清戦争による壊滅的打撃と帰国
最大の転換点となったのが、1894年(明治27年)の日清戦争です。敵国人となった横浜の清国人ブローカーや商人は激しい立場への追い込みに直面し、全人口の約3分の2が中国へ帰国せざるを得なくなりました。これにより、それまで築かれていた貿易ブローカーとしてのネットワークは一度大きく分断されました。
日清戦争が勃発し国交が断絶すると、当時の日本政府は清国人の滞在自体は法的に認め続けたものの、敵国となったことで激しい心理的プレッシャーや排斥の動き、経済活動の麻痺が起こりました。そのため、開戦からわずか1ヶ月ほどの間に、横浜にいた清国人の約3分の2(約6割〜7割)が急遽、船で本国へ帰国しました。
日本に残る選択をした約3分の1の人々は、以下のような状況にありました。
・生活基盤がすでに日本にあった人:日本人の妻や家族を持っていたり、日本国内に動かせない資産や店舗を持っていた華僑は簡単には動けず、日本にとどまりました。
・独自の摩擦回避策:残った華僑コミュニティは、日本社会との衝突やトラブルを避けるため、アヘン吸引者や賭博常習者など「戦時居住不適格者」とみなされる者が横浜に再来するのを禁止する布告を独自に出すなど、非常に慎重に行動し、嵐が過ぎ去るのを待ちました。その後、1895年に戦争が終結に向かうと、帰国していた人々が再び日本へ戻り始め、数年後には元の人口規模に回復しています。
4. 震災を経て「横浜中華街」の飲食店・小売店へ
戦後に復興したものの、1923年(大正12年)の関東大震災が決定打となり、有力な貿易商は神戸などの阪神地域へ移転。横浜に残った華僑たちは、大規模型の貿易から飲食店や小売・サービス業へ転換し、現在の横浜中華街の基礎を築きました。
明治初期の清国人ブローカーは、日本の近代化や戦争・震災を経て、「貿易の主役」から「中華街の形成者」へと変化しました。>
おかげ様で美味しい中華料理を日本で食べられる。今年行った長崎のランタン祭り🏮(長崎の中華街)
お堂は、厳かな日本の神社やお寺と違って、商売繁盛、現世利益が一番❗️って感じできらびやかでお供えもたくさんあった(ブダさんの頭もたくさん🐖)。確かに、お金大事〜という感じがあった。
従者兼通訳の募集
「おおぜいの日本人が職を求めて来ました。明瞭な英語が話せるのは不可欠な条件ですが、ひどい発音で片言だけ話したり、さらには単語をでたらめに継ぎ合わせたりするのには驚きました。その程度でも、応募者たちはそれで十分な資格ありと考えているのです。・・・これならと思える応募者が3名いました。一人は陽気な若者で、仕立てのいい明るい色のツイードの洋服、折ったカラー、ダイヤモンドのピンを刺したネクタイ、ヨーロッパ式の浅いお辞儀すらできないほど糊の固くきいた白いシャツといういでたちで現れました。金ピカの時計鎖にロケットを下げており、真っ白な金巾のポケットチーフの角を胸のポケットから垂らし、手にはステッキとフェルト帽を持っています。日本人としては第一級の伊達男でした。私は残念な思いで彼を見つめました。糊の効いたカラーは、私には今後三ヶ月間手の届かない贅沢品になるはずです。彼の着ている上等な外国製の衣服は日本国内のどこへ行ってもものの値段をつり上げるでしょう。それにダンディな男性につまらない用事を頼むにはずっと遠慮が付きまといます。というわけで、彼の英語が二番目の質問で行き詰まった時には大いにホッとしました。その次の応募者は35歳の人品卑しからぬ風采の男で、立派な和服を着ていました。推薦状の評価も高く、最初に話した英語は期待が持てました。ところが、彼の前身はある裕福なイギリス人官吏に支えていたコックで、その官吏は大勢のお供を連れて旅し、旅の行き先にあらかじめ従者を送って準備させていたのです。この応募者の知っている英語の単語はごく僅かで、今回の旅の一行に「旦那様はいない」こと、女の召使いはいないことを知った時の彼の驚愕ぶりは、私が断ったのか、それとも向こうが断ったのか、わからなくなるほどでした。
三人目はウイルキンソン氏が送ってきた応募者で、質素な和服を着て知的で率直そうな顔をしていました。・・・彼は自分は他の人より英語をよく知っている、もっと落ち着けばうまくしゃべれると考えました。私の話すことはちゃんとわかったらしく、私は向こうの方が「主人」になってしまうかもという懸念を抱きながらも、大変好感を持ったので、その場で契約しそうになりました。これならと思った応募者には他にいないのです。ところが、私が心を決めかけた時、ヘプバーン博士の使用人と知り合いであるという以外、何の推薦状も持たない応募者が現れました。まだたったの18歳ですが、イギリスならこれは23、4歳に相当します。身長は147センチしかないものの、ガニ股ながら、よく均整のとれた頑丈そうな体躯の持ち主です。顔は丸顔で妙にのっぺりしており、綺麗な歯と細い目をしています。それに重そうに垂れたまぶたはまるで日本人によくあるまぶたを戯画化したようです。これまで会った日本人の中では一番愚鈍そうに見えましたが、でも時折見せるちらりと盗みうかがうような視線から察すると、鈍感を装っているところがなきにもあらずのようです。彼が言うには、アメリカ公使館にいたことがある、大阪鉄道の職員をやったことがある、植物採集家のマリーズ氏と東のルートを通って東北地方と北海道を旅した、植物を乾燥するのは知っている、料理は少しできる、英語が書ける、1日約40キロ歩ける、内陸旅行の何たるかを知っているとのこと!この逸材の卵は推薦状を一通も持っておらず、それは祖父の家で火事があり、推薦状を焼いてしまったからだと弁解しました。マリーズ氏に今すぐ問い合わせられるわけでもなく、それ以上に、私はこの男が信用できず、気に入れませんでした。とはいえ、彼には私の英語がわかり、私には彼の英語がわかります。それにすぐに旅に出たくてたまらなかった私は、月12ドルで彼を雇うことにしました。その後すぐに彼は契約書を持ってもう一度やって来ました。・・・翌日彼から一ヶ月分の賃金を前払いしてほしいと頼まれて支払いましたが、ヘプバーン博士が私を慰めるようにおっしゃるには、あの男はもう来ないだろうね!
契約書を交わした厳粛な夜以来私は気を揉んでいましたが、昨日彼が約束の時間にちゃんと現れたのでまるで本物の「海の老人」(船乗りシンドバッドの物語に出てくる妖怪)が自分の肩にしがみついたような気がしました。彼は猫のように音もなく階段を上がり廊下を歩きます。そして私の身の回りのものがどこにあるかをすでに知っています。何かに動じたり戸惑ったりすることがまるでなく、ハリー卿夫妻に出会ったときは深くお辞儀をしますが、公使館にいて「すっかりくつろいで」いるのは明らかです。また私の頼みに折れて、当番兵の一人からメキシコ式の鞍とイギリス式の沓や手綱などの付け方だけは習いました。彼はけっこう利口、つまり「頭が切れる」らしく、すでに旅の最初の三日分の手はずを整えてしまいました。名前は伊藤といい、これからの三ヶ月間、良きにつけ悪しきにつけ私の守護神となるのですから、彼についてもっともっと書くことになるのは間違いないでしょう。」
なんと、英語もできるシゴデキ日本人男性あらわれる❗️
蚤問題
「まだ日本の奥地を一人で旅したイギリス人女性は一人もいないので、私の計画は友人たちの間でとても友好的な関心を引き起こしましたが、旅行には行かない方がいいという意見が多く、励ましは少しです。・・・缶詰の肉やスープ、ワインを持って行きなさい、日本人のメイドを連れて行きなさいと何人からも言われましたが、それを聞き入れていては、少なくとも荷馬6頭の行列が必要になります。蚤については、蚤は夏に日本を旅行する場合の悩みの種だというのが残念ながらおおかたの一致した意見で、喉元までピッタリ閉めた寝袋で寝るようにと何人からも言われましたし、ベッドにたっぷりの殺虫剤をまけとか、石炭酸オイルを全身に塗っておけとか、蚤除草を干して粉にしたものをたっぷり使うと良いと言われました。とはいえ、どれも一時凌ぎにしかならないけれどとのこと。ハンモックは残念ながら、日本の家屋では使えません。」
今の日本ではペットも人間も蚤に悩まされることがないのでありがたい☺️
日本食のまずさ
「食料問題はどの旅行者にとっても一番の肝心の問題だということで、私の旅行のみならず、何かにつけ驚くほどの熱意を込めて意見がかわされます。・・・誰もが死活問題であるかのように真剣に論じます。そして多くの人にとっては本当に生死に関わる問題でもあるようです。実際のところ、外国人客を想定している人気リゾート地のわずかなホテルを除いて、パン、バター、ミルク、牛肉や豚肉、鶏肉、コーヒー、ワイン、ビールは手に入らないし、新鮮な魚は滅多にありません。また米、お茶、卵を常食とし、時折新鮮ではあっても味のない野菜をそれに加えることができない限り、食糧を携行しなければなりません。魚と野菜を使った「日本食」はゾッとするほどまずいもので、食べられる人は少なく、それも長い間訓練を積んだ末のことなのです。」
今では世界でも美味しいと言われる日本食、ずいぶん進化したんだなぁ。
逆に、当時の日本人女性が、牛肉やミルクが不味くて食べられないと書いた本を見たことがある。
牛乳は私も飲まない。元は牛の血液からできており、牛の赤ちゃんの飲み物だと思ってしまうと・・・。
息子はアレルギーのせいで幼少期、タンパク質は豆しか食べられなかった。米・野菜・豆しか食べるものがないのでマクロビ食で美味しく調理していた。その代わり量がすごかった。大人並みの量を。おやつは煎餅か団子、米粉パン、果物のみ。外食はおむすび専門店か和食屋さん、モスバーガーのみ。魚肉は小学生になってから。食パンも食べたがったが、外国産小麦は蕁麻疹出るので国産小麦限定だった。給食がパン食の時は米粉パンか国産小麦のパンを持たせた。でも魚肉小麦を食べすぎると夜中にアトピーが悪化するので量を制限していた。牛乳も飲めない。幼少期、先生とみんながするメロンパンの話に入れず苦笑いしていた息子。中学生男子が休日にラーメン食べに行こうぜ〜の輪にも入れなかった(マックはかろうじてポテトとジュースで行けた)。全国の中学生とのオンライン交流でミスドの話になった時にも輪に入れなかった。修学旅行では、昼食予定の和食屋さんに入店できず、時間もなくて急遽入った餃子屋さんでは友達が食べている間水だけ飲んで待っていた。切ない思いをいっぱいしたな〜。幸いにも知人にアレルギー除去食で同じ味を再現する料理人がいる。アレルギーっ子もアレルギーない子も同じ空間で同じお皿からとって同じものを食べる、ことを実現するために。オムレツ、たこ焼き、いちごのショートケーキ、ワッフル。メロンパンも再現してもらった。味見をしたが全く同じだった。息子は、みんなこんな美味しいものを食べているのか、と言った。中学3年生で加熱した卵はOKとなり、食べられないのは生の卵だけとなった。ミスドもメロンパンも中学3年生にして本物を味わった。休日には友達とラーメンの食べ歩きに出かけられるようになった。人との付き合いは食べごとが発生するから本当に難しかった。アレルギーを知らない親御さんが差し入れをくれたりする。みんなが食べる中その場で食べずに持ち帰り私にくれる。特にチームプレーの習い事や部活はさせられなかった。遠征時や集まりの際の食事対応を考えると周りに迷惑をかけるから、と息子自身が二の足を踏んだ。元々日本には洋食がなかったんだから洋食さえなければいいと思ったこともある。みんな和食だったら!
今、野球同好会に入って遠征にも行っている。洋食が思う存分食べられなかった息子はそれでも父親を抜いて180センチまで成長した。ただ体は細い。高校生になってからはプロテインバーで栄養補給させているが筋肉はついてくるのだろうか。
イザベラはやたらと日本人の身長の低さ、体躯の貧相さを書いている。肉食が始まり100年以上、日本人の体格も変わった。(病気も増えてしまったけど)