ドランヴァロ・メルキゼデク氏の著書、『フラワー・オブ・ライフ』の第2巻に「二元性を超越する」という章があります。

その章から、少々長くなりますが、引用させて頂きます。

 

〝 人生で出合うさまざまなことを裁き続けているかぎり、私たちはそれらに善か悪かいずれの力を与えることになり、それによって人生の針路も左右されます。こうしたことをやめて二元性を超越するには、私たち自身が二極性の外に踏み出さなくてはなりません。私たちは変わらなければならないのです。しかもその変化とは、何とかして私たちがこの世界への裁きをやめることから生まれなければなりません。裁く、判断するという行為は物事の善悪や正邪を決めつけてしまいます。善と悪、あるいは二元性意識の根底にあるのは判断や決めつけです。

 ここでカギとなるのは、この宇宙すべての世界とそこに起こることのすべては全一で完全で完璧であるという視座と、そして宇宙のDNA や計画は創造者によって正確に導かれつつ進行しているという認識ではないかと思います。(p,279)〟

 

自分は正しい、間違っていない!

それをはっきりさせたいとこだわっていた時には、同じような文章を読んでも、

だって、善悪というのは確かにあるじゃない!

と、思ったものです。

 

私の、教師だったという会ったことのない父方の祖父は、やはり、とても真面目な人だったようです。

戦中・戦後の食糧難の時代も、食糧管理法で禁じられていたヤミ米などは嫌ったそうで、

祖母の 死も栄養失調が大きかったのではないかと聞いたことがあります。

そして、やはり教師だった父もとても真面目な人でした。

そういった遺伝子を持って生まれた私が、悪というものに強い恐れを抱くようになっていったのは、突飛なことではなかったのかもしれません。

 

もし、赤ん坊が、善悪という二元性を超越した次元からやってきたとしたら。

好奇心の赴くままに起こした行動を、いきなり阻止され、大きな声で怒鳴られ恐い顔で睨まれたら、それはそれはびっくりすることでしょう。

ましてや、生命の危機を感じるようなことがあったなら、与えられる善悪の基準を受け入れることが生きのびるための得策でもあるのでしょう。

 

この社会には、悪=罪=罰と恐れを植え付けていくものは沢山あります。

テレビ画面に映る「死刑執行」のテロップや刑場の様子…。

周りが気づかずとも、凍りついてしまう子供たちもいることでしょう。

 

そして、一人一人が過去生といわれているような、隠れた記憶を持っているとしたら。

歴史を振り返ってみても、権力者から一方的に悪のレッテルを貼られ、自由を奪われたり処刑された記憶の一つや二つ、持っている人の方が多いのではないでしょうか?

 

まぁ、様々な要素が組み合わさったとしても、皆んなが病的な恐怖症を発症するわけではなく、そこには又、違う要素が加わっているのでしょう。

 

何はともあれ、私の場合は、病的な恐怖症が治ったあとも、

自分は間違っていない、正しい!

と、こだわってみたり、

自分が、正しいと決めた範囲から出ることを恐れ抵抗してきました。

 

けれど、上記の本に、ドランヴァロが、

〝生きるということは実験そのものです(P,280)〟

と、書いているように、

実験・体験を一通りやってみたら、

それが、二元性を超えていくために選んだ方法だったと思えてきました。

 

平面的にとらえれば、善の裏には悪があり、一方だけを選ぶことは出来ません。

でも、立体的にとらえれば全然違って見えてきます。

 

善悪両方を体験し、

一人一人に自由意志があるなら、

二元性を超えようと思うときがくるのは、ごく自然なことのようにも思います。

 

まだ歪んでいますが、綿棒を使った立体工作、随分上手くなってきました。

 

ベクトル平衡体、今回は間違えることなく作ることが出来ました。

 

 

 

 

 

「ちからぬく」というサイトの「シード・オブ・ライフ(ベクトル平衡体)の工作②」

を見ながら作らせて頂きました

 

 

 

 

 

 

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