コンクリートの照り返しが強くて、毎回毎回、本当に暑い。

おまけに坂道だし。

なんて、文句を言いながらも、今日、姉の墓参りに行ってきました。

もう12年になるのに、ここ数日は、夜になるといろんな思いが込み上げてきました。

 

姉も若いときから精神的な悩みはあったようですが、私は、あの夏の、脳炎と思われる症状をも引き起こしてしまった髄膜炎への感染が大きかったように思っています。

 

視点の定まらない目をして廊下を往復する姿を見てしまったとき、もの凄い恐怖と悲しみが込み上げてきました。

もう、姉は病院という場所から出れないかもしれないと思いました。

 

でも、幸い退院して義兄との生活に戻ることが出来ました。

胸をなでおろしましたが、恐怖が消えてはいなかったのでしょう。

姉夫婦に私から連絡することはありませんでした。

 

あの夏から7年が経とうとしていたとき、母が体調を崩し検査入院をしました。

腹違いの上の姉は、彼女の叔母さんの介護を泊まり込みで行っていました。

 

心細くて、ずっと連絡していなかった姉に連絡すると、すぐに飛んできてくれました。

服装も奇抜で、丸くなって、おまけに、病室で携帯を鳴らすものだから、

「電源、切りなよ」と言うと、「切り方わからないから、看護婦さんに切ってもらう」と言って出ていってしまいました。

 

それでも、入院をきっかけに母も精神的に不安定になり完全に介護が必要になってしまいましたから、彼女が週に数日、我が家に泊まってくれることになったのは、とても頼もしかったです。

 

タガが外れてしまったかのような母と、奇抜な服装と、時に行動を起こす姉、やれやれと思いながらも、それはそれで楽しかったようにも思います。

 

けれど、子供が欲しいという彼女の願いが叶わず生理が始まってしまい、母に八つ当たりしていたあの日、

「また明日来るから」と言って帰ったにもかかわらず、彼女は一人旅立ってしまいました。

 

義兄の電話で、それを知ったとき、天はそこまで残酷なことをするのかなって、本当に思いました。

 

でも、時間が経つと、あの姉を皆がずっと支え切れただろうかという疑問がわいてきました。

 

母に八つ当たりする姉に、付き合っていられないと呆れ、彼女の気持ちを思うことが全く出来なかったこと、助けてあげられなかったことへの後悔。

 

そして、120%生きててほしかったと言い切れないことへの罪悪感。

 

それらを、手放さなきゃ、なんて、今は思いません。

 

けれど、姉は姉の人生を生きたのだし、母たちと一緒に穏やかな状態で、私たちを見守ってくれていると思いたいです。

 

「また開く花のように」という小説は、自分の体験が誰かの役に立ってもらえればという思い、そして姉との思い出を楽しい形で残したいという思いから、40代の前半に書きました。

自分で読み返すのも恥ずかしいし、長すぎて全部読んでもらうのは難しいと思います。

それでも、登録せずに読めるようにいたしましたので、お時間ありましたら、ちらっと覗いてみて下さい。

↓↓↓

http://matahirakuhana.jimdo.com/

 

 

 

 


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