ブログを読んで下さっている方の中には、もっと家族が強迫性障害という病を理解してくれたら良いのに、と思っている方もいらっしゃるかもしれません。

 

幸い、私は、家族にはとても恵まれていて…と、書きたいところですが、私だって、理解ない言葉に傷つけられたこともありました。

 

何かしら自分の経験からも病を理解できるところがあったように思える母は、どうしても折り合いがつけられない時に、最後の手段で確認を頼むと、

「大丈夫だよ」と笑顔で言ってくれた記憶が強く残っています。

 

そして、母の母である祖母と歳の離れた姉は、困ったものだと思いながらも、あえて、私が傷つくようなことを口にする人たちではありませんでした。

 

しかし、父は違いました。

 

火が消えていることに確信が持てずガス台の前から離れられなくなっていた時、背後から、彼が母に向かい、

「おい、こいつは何やっているんだ?! 頭がおかしいんじゃないか!」と、怒鳴っている声が聞こえてきたこともありました。

 

大丈夫なわけがありません。歌の文句ではありませんが、全ての感情の動きをストップさせるために、心を凍らせるというのは、あんな状態を言うのかもしれません。

 

けれど、亡くなって35年以上が経つのです。

私にとって、父はもう、怒りや恨みの対象ではありません。

 

私の母が後妻としてこの家にやってきたのは、お母さんが亡くなり家事のほとんどをしていたのでしょう上の姉が19歳ぐらいのとき。

 

ですから、姉には、母も私も知らない父との思い出があり、そこに登場する彼の身勝手さは、今では私たち姉妹を笑わせてくれます。

 

でも、笑えない話を聞くこともあります。

 

終戦は姉が5歳のときですから、徴兵された父が中国から戻ってきたのもそれ以降のこと。

 

父は戦争について何も話さなかったそうですが、姉は、戻ってきた彼が毎晩のようにうなされていたのを覚えているそうです。

 

明治生まれで年齢も若くはなく、運動よりは学問ばかりしてきたようなような父が、軍隊で辛い思いをしただろうことは想像できます。

 

また、まだ小さかった姉が父の布団にもぐり込んだとき、ガバッと起き上がり物凄い形相で「何するんだ! びっくりするじゃないか!」と怒鳴ったと言いますから、いつ、自分の命を奪われるかわからないという恐怖も簡単に癒えるものではなかったのでしょう。

 

そして、「あんな残酷なことをする国の仕事だけはしたくない」と、公務員になろうとしなかったという彼が、まさに私がそれだけは避けたいと怯え続けてきた、誰かの人生を台無しにしまった、あるいは命を奪ってしまったという傷みを抱えていた可能性は非常に高いように思います。

 

もちろん、今となっては、父のこらえられない怒り、そして、怒る目の奥の悲しみが何だったのかは、もうわかりません。

 

父の秘めた傷みを少しでも背負うため、娘の私が加害恐怖症になったというほど、単純ではないように思います。

 

けれど、深いところでは、家族を超えて人と人は繋がっていて、無意識のうちに、どこかで生じた傷みを癒そうとすることもあるような気がしてなりません。

 

多くの方々が傷みを背負ってくれて今があるのなら、この国から世界に平和を。

 

くちなしの花

 

 

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