「ヒーリングの過程」シリーズは、ちょっとおやすみ。
もしも、待っていてくれた方がいたらごめんなさい。


さてさて、今日のお話しに入ります。

病気の進行で殆ど口から栄養を取ることの出来なくなった母の最期を看取るため、家に連れて帰ったのは、ちょうど7年前のことです。

その数日前に、髄膜腫の摘出手術後病院でリハビリを続けていた姉も、ほぼ半年ぶりに家に帰ってきていました。

きっと母は、私を一人にしないため姉の退院を待っていてくれたのです。

けれど私は、杖をつき歩くのがやっとの姉と私を二人だけにしないでほしいと母に頼み続けていました。

私と腹違いの姉は 23才違い。

小さい時から、母と彼女が言い争いをすれば、言い分なんて関係なく、いつも母がいじめられていると受け取ってきました。

だから、母やお祖母ちゃんと一緒に私達を育ててくれたのに、母の介護だってうんと助けてくれたのに、母がいなくなったら彼女とは別々に暮らそうと思っていました。

その姉の頭の中で、腫瘍がテニスボ―ルほどにも 育っているのがわかったのは、胃瘻の手術を断っていた母の体調が大きく崩れだした頃。

幸い良性だったため、母を施設に預け、姉の手術に付き添いました。

けれど、 10時間以上の手術で腫瘍の殆どは摘出できたものの、後遺症も想像以上に大きかったのです。

寝返りも打てず、まともな会話も出来ない状態からリハビリが始まりました。

私の心の拠りどころは、ちゃんとした答えを返してはくれない母だけでした。

 しかし、その母は、3度目の入院で、もう危険だから口から食べさせてはいけないと言われてしまったのです。

あたりまえに、それは死を意味する言葉で、あれほど拒んでいた胃瘻の手術が今から出来ないかと、私は口にしていました。

でも、もう戻ることは出来ませんでした。

病院から一人家に帰っても頭をよぎるのは、母のお茶目な笑顔。
愛しくて可愛くて、可愛くて愛しくてたまりませんでした。

そして、母がいるから頑張れる。母がいなくなったら、姉の介護なんて出来ない、そう思いました。

それでも、看取るのなら家に連れて帰りたいという私の希望で決まった母の退院時期と、3ヶ月のリハビリ期間を修了した姉の退院時期は重なり、まず姉を、そして数日後に母を家に迎えました。

病院では、口から食べさせてはもらえませんでしたが、最期だからとそれも許可され、私は、必死で母に高カロリーのものを食べさせようとしました。

頼むからお姉ちゃんと二人だけにしないで、私は心の中で叫んでいました。

けれど、これ以上、自分の我が儘で母を引き留めることは出来ない、そう思わざるをえない時がきました。

久しぶりに花を飾った次の日の夜、母の呼吸は次第に早くなっていきました。

朝になり主治医が来てくれましたが、待つことしかなく、その時が来たら連絡するように言い残し、帰っていきました。

退院から間もない姉はベッドで居眠りを始めました。

 今から20年以上前に幽体離脱のワ―クショップに出たことがありましたが、その時行ったような早い激しい呼吸を母は繰り返していました。

しかし、突然、彼女の目が大きく開き宙をじっと見つめました。そして、次の瞬間、額からさぁ―っと、血の気が引いていきました。

あまりにも見事で、私は「お母さん、上手に抜けたね」と小さい声で叫びました。

あれから7年。
体調が万全とはいきませんが、食事作りに洗濯に、姉には大変お世話になっております。

我が家で、ヒ―リングル―ム(?)を始められるのも、彼女のおかげです。

さてさて、デイサ―ビスで、「お迎えがきましたよ」と言われ嬉しそうに振り返りながら、娘である私を見て「知らない人でした」と言ってのけた偉大なる母の命日、2月16日にお店の名前を発表する予定では、おります。




 

 

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