私が小学校(国民学校)三年生も終わりの頃、戦場は○○島で
玉砕をしたとの、父戦死の公報が入りましたが、白木の箱には
満州で写した写真が入っていました。遺骨は入っていません。母と
押入の中で泣きました。大きな声では泣くことの出来ない戦時中の
苦しい出来事です。その他は解らないままで、日本の国は敗戦とな
りました。昨年の八月は戦後75年をむかえたことですが・・・私は
やはり父の事が心の奥、ふかくに有りました。
私の実家は世田谷の三軒茶屋ですが、母が10年前に亡くなり
その時に遺品を整理しましたが・・・此の度その時に出来なかった
父の戦歴が、出てきて私の所に送られて来ました。「○○島で名誉
の戦死」と、確かに書いて有りました。○○島には父が眠っている
と思うと気持ちが楽になりました。戦死をした時の年齢
は37歳だそうです。母からはマーシャル群島と聞きましたが・・・
父が戦死た年から計算すると、77年前になります。今日は父が
戦死した日「2月24日」でした。父はお酒も煙草も飲まないが、甘い
物が好きでした。仕事の合間には幼い私を連れては、多摩川に釣り
に出掛けました。父と「たい焼き」を食べた事を思い出しましたので
今日は仏教では命日と云うそうですが、父の写真に「たい焼き」と、
お茶を置きました。その隣には10年前に亡くなった母の写真も、
飾ってあります。37歳の父と93歳の母です。母は戦争未亡人になり
ましたが、苦労を重ねて私達を育ててくれました。感謝です。