ユダヤ人の王 ヨハネ8:31節~ レムナントキリスト教会。動画紹介
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(あなたの法で裁け)
ユダヤ人は自分でイエスを裁く法を持たず、
それゆえ、異邦人ピラトのもとに彼を連れてきて その法で裁いた。
同じことは終末の日におきるかもしれない、
背教の教会で異端者とみなされた人々は教会内というよりこの世の法、
法廷で裁かれる、このことは おき得る。
(ユダヤ人の王)
イエスがユダヤ人の王であることが度々十字架の場面で語られる、
イエスはリーダーとなるべく選挙で立候補したわけでも、
また王となるべく 政治活動を行ったわけでもないのに、
なぜこのことが語られるのか?
1サムエル8:4~10節を見るとイスラエルの真の王は人間ではなく、
神ご自身であることがかたられている。
この記述はイエスとつながる。
イエスが王であるという時、この王、民を治める真の王として
聖書は語っていることを知るべきである。
それで十字架の冒涜の意味合いは単に一人の人を殺したというだけでなく、
自分たちを治める方、神であり、王なる方を殺す悪行であることを悟るべきである。 そして同じ罪を新約の民は黙示録の時代に再度繰り返す。
黙示録11章の十字架の意味合いはここにある。
(自分がどのように死ぬか)
主はどのように死なれたのか?
ヨハネ12:32節でイエスは自分が十字架で挙げられるとき、
多くの人を引き上げることを語る。
すなわち、イエスの死のゆえにあがないがなされ、
我々は天の御国に入るのである。
このように主イエスの生涯はその初めから最後まで人のためであり、
自分を愛するように他人を愛した歩みだった。
我々はこの主の歩みにわずかでも従いたい。
(あなたの国民と大祭司が渡した)
自分の同胞、兄弟がイエスを死に渡し、
民を神に対してあがないを行う筈の大祭司が彼を死に渡した。
なんとも皮肉なことだが、
しかしこのことは終わりの日に再現することを知るべきである。
我々は教会の同胞である兄弟姉妹から死に渡され、
教会のリーダー達から異端として訴えられる。
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エレミヤ牧師は、
「ユダヤ人は自分でイエスを裁く法を持たず」と
言っているが嘘です。
裁く権限がローマに奪われていただけです。
ヨハネ 19:7
ユダヤ人たちは答えた。
「わたしたちには律法があります。
律法によれば、この男は死罪に当たります。
神の子と自称したからです。」
と書いてある通りです。
そして、
「終末の日」と言う言葉は、
聖書にはありません。
そして、イエスが御自分で
「ユダヤ人の王」だと発言された事はありません。
マタイ 27:11(新共同訳)
さて、イエスは総督の前に立たれた。
総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、
イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
マタイ 27:11(KJV訳グーグル翻訳)
そこで、イエスは総督の前に立たれた。
総督はイエスに尋ねた。
「あなたはユダヤ人の王なのか。」
イエスは彼に言われた。
「あなたがそう言っているのです。」
と書いてある通りです。
しかし、口語訳、新改訳では、
イエスは「そのとおりである」と言われた。(口語訳)
イエスは彼に「そのとおりです」と言われた。(新改訳)
と全く真逆に翻訳されています。
ユダヤ人は
イエスを言葉の罠に嵌めようとしています。
マタイ 22:15
そのころ、パリサイ人たちは出て来て、
どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。
マタイ 22:17-18
それで、どう思われるのか言ってください。
税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。
かなっていないことでしょうか。」
イエスは彼らの悪意を知って言われた。
「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。
と書いてある通りです。
ユダヤ人たちは、
イエスを言葉の罠に嵌め、
皇帝に背かせ、
皇帝カイザルに裁かせようとしたのです。
つまり、殺させようとしたのです。
イエスが、
「ユダヤ人と王」と自称するしないも、
ユダヤ人の言葉の罠です。
イエスが、
「ユダヤ人の王」だと自称すれば、
ローマ帝国の法によって裁かれてしまいます。
しかし、
キリストはユダヤ人の不正により、
律法で裁かれる必要があります。
同じ事が記されている
マルコ書、ルカ書も
新共同訳、KJV訳と
口語訳、新改訳ではその翻訳が
同じように180度違います。
しかし、
ヨハネ書は次のように翻訳されています。
ヨハネ 18:33-34
そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、
「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
イエスはお答えになった。
「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。
それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
と書いてある通りです。
この箇所は、
新共同訳、KJV訳、口語訳、新改訳も
同じように翻訳されています。
よって、
イエス自身が、「ユダヤ人の王」と
自称した事はないのです。
この事を更に証明するように、
ユダヤ人は次のようにピラトに申し出ている。
ヨハネ 19:21
ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、
「『ユダヤ人の王』と書かず、
『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
と書いてある通りです。
ユダヤ人は、
ピラトに嘘を書くように申し出て、
自分達が殺したのではなく、
ローマ帝国(ピラト)に
罪をなすり付けようとしたのです。
しかし、恐らく、
ピラトは、その事を見抜き拒否したのです。
*:または、神を畏れて。
そして、今の教会でも、
聖書をろくに知らない新米クリスチャンに
信仰告白を行わせて、
「ピラトがイエスを殺した」と
嘘を告白させています。
聖書には、
「ユダヤ人の王」と言う言葉は、
4つの福音書にしかありません。
イエスは
イスラエルの王として来られています。
ヨハネ 12:13
しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。
そして大声で叫んだ。
「ホサナ。祝福あれ。
主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
と書いてある通りです。
聖書には、
「イスラエルの王」と言う言葉は
旧約に200箇所以上あり、
新約には、4つの福音書にしかありません。
イエスは、
イザヤ書で預言されれた、
油注がれたイスラエルの王です。
ルカ 4:18-19
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
と書いてある通りです。
そして、ダビデ王もまた、
油注がれたイスラエルの王です。
ダビデの王座とはイスラエルの王座であり、
南ユダの王座、また南ユダの王ではありません。
そして、
ユダヤ人に次のように言われています。
マタイ 23:38-39
見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
あなたがたに告げます。
『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、
あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」
と書いてある通りです。
ここでも、
イエスがイスラエルの王である事が分かります。
バルトロマイ (使徒ナタナエル)も
次のように言っています。
ヨハネ 1:47
イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、
彼のことをこう言われた。
「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
ヨハネ 1:49
ナタナエルは答えた。
「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
また、
次の節も無関係ではないと思います。
マタイ 2:1-2
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。
わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
と書いてある通りです。
神は、占星術を忌み嫌われています。
その占星術の学者が、
「ユダヤ人の王」を探しに来るなど
サタンの業としか思えません
エレミヤ牧師は、
次に、「十字架の冒涜」と言う
聖書には無い言葉、
宗教的な言葉を使っています。
これを正しく言うならば、
イエス・キリストの神性、メシア、
罪の贖いの否定
つまり、福音の否定です。
決っして、
人の手で作った十字架(物)の否定ではなく
十字架の踏絵を踏む事でもありません。
そして、このように説明しなければ、
「十字架の冒涜」と言う言葉は、
神の言葉を知らない者に誤解を招きます。
*:福音とは、自分の罪を認め
イエス・キリストの十字架の死、埋葬、復活を
信じれば、罪が赦されると言う、神の恵み。
神からの善い知らせです。
キリストに任命された12使徒には
この福音宣教が任されました。
つまり、イエスの証しです。
だから、
使徒ヨハネは次のように言っています。
黙示録 1:9
わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、
その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。
わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
と書いてある通りです。
そして、イエスの証しだけではなく、
神の言葉も重要です。
そして、エレミヤ牧師は、
新約の民(クリスチャン)が、
「黙示録の時代」に同じことを繰り返すと言い、
黙示録11章の十字架がその意味だと言っている。
「黙示録の時代」も聖書にない言葉です。
エレミヤ牧師は、
聖書に書かれていない、
「終末の日」と言ったり、
「黙示録の時代」と言ったり
聞く方は、何がなんだか分かりません。
黙示録11章の十字架については
次のように書いてあります。
黙示録 11:3-4
わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、
千二百六十日の間、預言させよう。」
この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、
また二つの燭台である。
黙示録 11:7-8
二人がその証しを終えると、
一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、
二人を殺してしまう。
彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか
呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。
この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。
と書いてある通りです。
二人の証人と書いてあります。
つまり、
この二人はイエスの証しをする者達です。
イエスの証しとは「福音伝道」であり
その二人が十字架に付けられる。
言い換えれば、
福音が不法にも罪(法で禁止)に定められるのです。
*:恐らく内乱罪的な罪。
これが、
「二人の証人が十字架に付けられる」の意味です。
二つのオリーブの木は二つのイスラエル、
二つの燭台は二つの教会または神殿であるので
新約のイスラエル、旧約のイスラエルと言えます。
また、粗布をまとっているので、
悔い改めた新旧イスラエルです。
彼らが、福音宣教を行います。
しかし、
福音を信じるとは、
自分の罪を認め、告白し、
悔い改め、イエス・キリストを信じる事を意味します。
よって、
異邦人、他宗教は受け入れません。
特に、イエス・キリストは。
結果、
異邦人、他宗教との対立を生み争いが起きます。
既に起きています。
福音宣教は終わりの時が定まってるようです。
その時が来ると
獣(不法の者、滅びの子)が出現します。
*:先の黙示録11:7に書いてあります。
これは、
2テサロニケ2:6の預言に通じます。
*:抑えているもの=福音、福音宣教、聖霊。
獣は、
福音(イエス・キリスト)を宗教間の争いの原因として、
平和を得る事を理由に
福音(御名)を法により禁じるでしょう。
ユダヤ人にも、福音はありました。
それは、預言者イザヤが預言した、
メシアの来臨の預言です。
ユダヤ人にはその信仰があったのです。
しかし、
ユダヤ人は、そのメシアである
イエス・キリストが分からず、
キリストを見る事も、
その声を聞くことも出来ませんでした。
なぜ、そうなったのか?
それは、
ユダヤ人が神の言葉に対して
不正を行っていたからです。
結果、
更に神の言葉に対して不正を行い、
イエス(メシア)を罪人と定め十字架に付け殺したのです。
先の言葉を思い出して下さい。
「神の言葉とイエスの証し」
これは、一対になっています。
クリスチャンにも同じ事が起ています。
クリスチャンは
イエスの証し(福音)については信仰がありますが、
神の言葉については不忠実であり、
不正を行っています。
神の言葉に対して不正を行うクリスチャンは、
イエスの証し・福音に信仰があっても、
ユダヤ人がそうであったように、
約束の主の再臨が分からず、
キリストを見る事も、聞くこともできません。
これは、クリスチャン自身が、
神の言葉に対して不正を行う事で、
イエス・キリスト、福音を
自ら十字架に付ける事と同じです。
自らの不正が、
恵みの救いを奪っているのです。
キリストを十字架に付けて殺しています。
これが、
現在、終わりの時に既に起きている事であり、
つまり、教会は既に背教しており、
「主の再臨」、「主の日」が分からないのです。
ユダヤ人が
「主の来臨」が分からなかったようにです。
また、エレミヤ牧師は、
次の節を引用して
ヨハネ 12:32
わたしが地上から上げられるなら、
わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
「多くの人を引きあげる」と言っていますが、
聖書には書いてありません。
「引き寄せる」と書いてあります。
使徒パウロも次のように言っています。
2テサロニケ 2:1
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、
そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。
と書いてある通りです。
キリストが来られ、みもとに集められるのです。
つまり、御国(キリスト)が来るのです。
主の祈りでも、次のようの言われています。
マタイ 6:10
御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
と書いてある通りです。
神は、「地は私の足台」と言われ、
契約の箱も足台です。
つまり、「みもと」とは
足台がある神殿であり、
キリストが据えられた霊的な教会(幕屋)です。
この世に広がる霊的な神の幕屋です。
つまり、
地上の御国に神の民、イスラエルは集められます。
エレミヤ牧師は
今度は、「終わりの日」と言い、
その時に、
「我々は教会の同胞である兄弟姉妹から死に渡され、
教会のリーダー達から異端として訴えられる。」
と言っていますが、
「終わりの日」ではありません。
「終わりの日」とは「主の日」、
「主の再臨」を指す言葉です。
ヨハネ 6:39
わたしをお遣わしになった方の御心とは、
わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、
終わりの日に復活させることである。
と書いてある通りです。
終わりの日とは、再臨の日、主の日です。
エレミヤ牧師が言われている事は、
恐らく終わりの時に起きます。
黙示録の第二の獣は
偽預言者であるから牧師、反キリストです。
第二の獣に、
獣を礼拝するように強要され、
従わない者は殺されると預言されています。
しかし、これは、
黙示録11章での
二人の証人の十字架の死とは
その意味合いがまったく違います。
以上、ご覧になってお分かりのように、
エレミヤ牧師は、
「終末の日」と言ったり、
「黙示録の時代」と言ったり、
「終わりの日」と言ったり、
「多くの人を引き上げる」と
都合の良い解釈をしたり、
その言葉の選択、解釈が支離滅裂です。
教会の教えに思考が固まっています。
エレミヤ牧師の間違いは、
「終わりの時」を正しく解釈していない事です。
今が「終わりの時」である事を理解していません。
よって、
預言の全てが、
終末に起きると解釈しています。
教会の2000年以上の歴史、
今の教会、クリスチャンの現状が、
完全に無視されています。
また、
この世の不正にも無関心です。
また、
反キリストの理解も問題があります。
反キリストは、
使徒ヨハネが教えているように
初代教会時代から多く存在しています。
エレミヤ牧師は、使徒の言葉を無視して、
終末に反キリストが現れると教え、
クリスチャンが
反キリストを拝むと嘘を教えています。
それは、2テサロニケ2章を
正しく理解していないからです。
そして、
異邦人、未信者が反キリストに
成り得ない事を理解していません。
神の言葉を知らな者は
反キリストには成れません。
反キリストは
神の言葉を知るクリスチャンです。
偽預言者も同じです。
神の言葉を知らない者は、
反キリストではなく未信者です。
以上。