改めて、自分の生い立ちについて考えています。

私の両親は、お見合い結婚でした。二人を批判的に表現するなら、

・比較的社会的地位のある仕事に就き、育児・家事は母任せで、母がそれらを放棄しても非難ばかりで、適切な処置を講じなかった父
・育児も家事も放棄して、父をなじり、子どもを嘲笑し、毎日自分の事しか考えていなかった母親


情状酌量の余地をもって表現するなら、

・日々の仕事に手一杯で、夫婦仲が悪くなっていっても、家庭が滅茶苦茶になっていっても、どうしていいか分からずに無視するしか術がなかった愚直な父親
・自身の両親との不仲とワンオペ育児で体調を崩し、さりとて誰も助けてくれず、次第に追い込まれて育児も家事もできなくなっていった孤独な母親


…と言えます。夫婦仲は悪く、お互いが相手の悪口を言い、しょっちゅう口喧嘩していました。

そんな両親のもとで育った私の生い立ちを説明するなら、

「ネグレクト」

…の一言に尽きます。

父は仕事、母は自分の体調に手一杯で、私を見てくれること(視線が合うこと)は殆どなく、「今日はどうだった?」など声かけもなく、親子の会話もなく、生活スキルを教えてくれるわけでもなく、「実質誰もいないに等しい環境」で育ちました。

その影響は甚大で、「人生は、孤立無援で生きねばならない過酷なもの」という人生観が形作られました。「誰も助けてくれない。味方はいない。自分一人で何とかしないといけない」がベースになってしまったんです。

例えば、小学4年生で足に怪我をした時も、親や大人に相談するとか、相談したら助けて貰えるという経験がなかったので、どう対処すればいいか分からず、途方に暮れ、痛みと恐怖に圧倒されて、結局黙って翌日も登校しようとして、歩けなくなってから事態が発覚した、という一件がありました。否応なく、そんな生き方にならざるを得なかったんです。

……

……

誰しも、自分の生い立ちについて人生の要所要所で振り返り、新発見をしたり、新たな解釈が出てきたり、親に腹を立てたり、逆に感謝したり…そんな作業を何度も繰り返して生きているように思います。(少なくとも、私と夫はそんな感じです。)

で、私は今週もまたその作業をしているのですが、今回、初めての気づきに至ったことが幾つかあります。


(つづく)