ネグレクト的な家庭環境で育った私は、親からほとんど何も教えられず、親に頼ることも相談することもできずに、幼少期から高校生までを過ごしました。

そのせいで、色んなものが欠落した、歪(いびつ)な人間になってしまっています。持ち合わせていない「常識」や「当たり前」も数多くあります。普通の家庭で育った夫を間近で見ていると、それがよくよく分かります。

もちろんそれは事実なのですが…

別の角度から見るなら、また別の事実も出てきます。例えば…

ネグレクト的な家庭環境だったおかげで、周りの家と比べて何かおかしいと思い、これは何だと考えるうちに、何事も深く思考する人間になりました。

ネグレクト的な家庭環境だったおかげで、会話の大切さを痛感し、対話をとても大切にする人間になりました。

ネグレクト的な家庭環境だったおかげで、周囲に甘えず、何でも自分でやる人間になりました。

ネグレクト的な家庭環境だったおかげで、多くの人が当たり前にしているもの(親の愛情、この世界への安心感、自分への信頼…)の有り難みがよく分かる人間になりました。

……

……

三つ子の魂百までで、私はまともな母親にはなれないでしょう。でも、それだけが良き母親ではないはずで、私は「私らしい母親」になるのが、自分がなれる最大限の「良き母親」ではないかと思い巡らせます。

「私らしい母親」というのは、「自分らしさの長短を知りつつ、総じてそれを好ましく思っている母親」かなと、今日は考えています。

妊娠すれば出産まで待ったなし、出産すれば2人育児が待ったなしの現実だからこそ、こんな事をあれこれ考えるゆとりのある妊活期は、貴重にも感じられます。