日蓮悦(よろこ)んで云く、本より存知の旨なり。雪山童子(せっせんどうじ)は半偈(げ)のために身をなげ、常啼菩薩(じょうたいぼさつ)は身をうり、善財童子(ぜんざいどうじ)は火に入り、楽法梵士(ぎょうぼうぼんじ)は皮をはぐ、薬王菩薩は臂(ひじ)をやく、不軽菩薩(ふぎょうぼさつ)は杖木をかうむり、師子尊者(ししそんじゃ)は頭(こうべ)をはねられ、提婆菩薩(だいばぼさつ)は外道にころさる。此等はいかなりける時ぞやと勘うれば、天台大師は「時に適(かな)うのみ」とかかれ、章安大師は「取捨宜(よろし)きを得て一向(いっこう)にすべからず」としるされ、法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其の行(ぎょう)万差(ばんさ)なるべし。仏記して云く「我が滅後・正像二千年すぎて、末法の始に此の法華経の肝心、題目の五字計(ばか)りを弘めんもの出来(しゅったい)すべし。其の時悪王・悪比丘(びく)等・大地微塵(みじん)より多くして、或は大乗、或は小乗等をもって・きそ(競)はんほどに、此の題目の行者にせめられて在家の檀那等をかたらひて、或はのり、或はうち、或はろうに入れ、或は所領を召し、或は流罪、或は頚(くび)をはぬべしなどいふとも、退転なく・ひろむるほどならば・あだをなすものは国主は・どし打ちをはじめ、餓鬼のごとく身をくらひ、後には他国よりせめらるべし。これひとへに梵天・帝釈・日月・四天等の法華経の敵なる国を他国より責めさせ給うなるべし」ととかれて候ぞ、各各我が弟子となのらん人人は一人もをく(臆)しをもはるべからず、をや(親)ををもひ・めこ(妻子)ををもひ、所領をかへりみること・なかれ。無量劫より・このかた・をやこ(親子)のため、所領のために、命すてたる事は大地微塵よりも・をほし。法華経のゆへには・いまだ一度もすてず。法華経をばそこばく(若干)行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき。譬えばゆ(湯)をわ(沸)かして水に入れ、火を切るにと(遂)げざるがごとし。各各思い切り給へ。此の身を法華経にかうるは石に金(こがね)をかへ、糞に米をかうるなり。
 仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉(かしょう)・阿難等・馬鳴(めみょう)・竜樹(りょうじゅ)等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目(がんもく)たる妙法蓮華経の五字・末法の始(はじめ)に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけ(魁)したり、わたうども(和党共)二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝(す)ぐれ、天台・伝教にもこへよかし。わづかの小島のぬしら(主等)がをど(威嚇)さんを・をぢては閻魔王のせめ(責)をばいかんがすべき。仏の御使と・なのりながら・をく(臆)せんは無下(むげ)の人人なりと申しふくめぬ。

通解
 これを聞いて日蓮は悦んで次のようにいった。「このような留難(るなん)が降りかかることははじめからよく承知していたことである。雪山童子は半偈のために鬼神へ身を投げ与え、常啼菩薩は法を求めるために身を売り、善財童子は求法のために高山から火のなかに飛び込み、楽法梵士は仏法の悟りの句を書き残すために自分の身の皮を剥(は)いで紙とし、薬王菩薩は臂(ひじ)を焼いて燈明とした。不軽菩薩は正法を説いて増上慢の者に杖木で打たれ、師子尊者は壇弥羅王に首を斬られ、提婆菩薩は法論に負けた外道の弟子に殺された。以上の実例はどういう時期に起こったのであろうかと考えてみると、天台大師は文句に『摂受か折伏かは時に適(かな)って行なうのである』と書き、それを受けて章安大師は涅槃経の疏(じょ)に『摂折二門は時に拠(よ)って取捨宜(よろ)しきを得て片寄るべきではない。すなわち、正像末で変わるものである』と記している。であるから法華経自体は一法であるけれども、衆生の機根に従い、時(正像末のこと)によってその修行の方法はさまざまに差別があるべきである。
 釈尊が記していうには『我が滅後・正法・像法二千年をすぎて末法に入るとその始めに此の法華経の肝心である題目の五字だけを弘める人が出現するであろう。其のときには悪王や悪僧等が大地の土よりも数多くいて、あるいは大乗・あるいは小乗をもってこの法華経の行者と競い合うであろうが、此の題目の行者に折伏をもって責められるために、在家の檀那等をさそい合わせて、あるいは悪口し、あるいは打ち、あるいは牢に入れ、あるいは所領を取り上げ、あるいは流罪、あるいは首を斬るなどといって脅迫するが、にもかかわらず退転せずに正法を弘めるならば、これらの仇をする者は、国主は同士打ちをはじめ、国民は餓鬼のように互いにその身を食い合い、のちには他国から攻められるであろう。この他国侵逼難(たこくしんぴつなん)はひとえに梵天・帝釈・日天・月天・四大天王等が、法華経の敵である国を他国からその謗法の罪を責めさせるのである』と説かれている。
 各々日蓮の弟子と名乗る人々は一人も臆する心を起こしてはならない。大難のときには親のことを心配したり妻子のことを心配したり所領を顧(かえり)みてはならない。無量劫の昔から今日まで親や子のためまた所領のために命を捨てたことは大地の土の数よりも多い。だが法華経のためのゆえにはいまだ一度も命を捨てたことはない。過去世に法華経をずいぶん修行したけれども、このような大難が出て来た場合には退転してしまった。それは譬えばせっかく湯を沸かしておきながら水に入れてしまい、火をおこすのに途中でやめておこしきれないようなものである。それではなにもならないではないか、今度こそ各々覚悟を決めきって修行をやりとおしなさい。命を捨てても此の身を法華経と交換するのは、石を黄金(こがね)と取り換え、糞を米と交換するようなものである。
 仏滅後二千二百二十余年たった今日までの間に、迦葉・阿難等の小乗教の付法者や、馬鳴・竜樹等の権大乗教の付法者、または南岳・天台等、妙楽・伝教等の法華経迹門の弘法者達でさえも、いまだに弘通しなかったところの法華経の肝心・諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の始めに全世界に弘まってゆくべき瑞相として、今、日蓮がその先駆をきった。わが一党の者、二陣三陣と自分に続いて大法を弘通して、迦葉・阿難にも勝れ天台・伝教にも超えなさい。わずかばかりの小島である日本の国の主(執権)等が威嚇するのをおじ恐れるようであっては、退転して地獄に堕ちたときに閻魔王の責めを一体どうするというのか。せっかく仏の御使いと名乗りをあげておきながら今さら臆するのは下劣な人々である」とよく弟子檀那達に申しふくめた。 

語訳
雪山童子(せっせんどうじ)
 釈迦が、過去世に雪山で菩薩道を修行したときの名。あるとき、鬼神から「諸行無常(しょぎょうむじょう)・是生滅法(ぜしょうめっぽう)」の半偈を聞き、あとの半偈「生滅滅已(しょうめつめっち)・寂滅為楽(じゃくめついらく)」を聞くために、その鬼神にわが身を与えた。だがそのときの鬼神は帝釈であり、雪山童子の求道心を試みたのである。

常啼菩薩(じょうたいぼさつ):
 大般若波羅蜜多経巻三百九十八に「常啼菩薩摩訶薩は本般若波羅蜜多を求むる時身命を惜(おし)まず珍財を顧(かえり)みず名誉に徇(したが)わず恭敬を希(ねが)わずして般若波羅蜜多を求む」とある。また常啼の名の因縁については、大智度論巻第九十六に「其の小時に喜んで啼(な)きしを以ての故に常啼と名づく」とあるように、啼(な)いて法を求めたためにこの名がある。

善財童子(ぜんざいどうじ):
 南方を遊行して五十五人の善知識(数え方によって五十三人とも五十四人ともされる)を歴訪したとき勝熱婆羅門の教えを受けるため、身を火中に投じ菩薩安住三昧(さんまい)を得たと華厳経入法界品に説かれている。福運があって、生まれるとき、種々の珍宝が自然に涌出したので、善財の名がある。

楽法梵士(ぎょうぼうぼんじ):
 釈迦が過去世に菩薩道を修行していたときの名。仏の一偈を聞くために皮を剝いで紙とし、骨を砕いて筆とし、血を墨として書写した。大智度論巻第四、弘決等にでている。

薬王菩薩:
 法華経薬王菩薩本事品第二十三にある。過去、日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)といわれ、仏から法華を聞いて、現一切色身三昧を得た。そして身を以って供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののちふたたび生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、日月浄明徳仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂(ひじ)を灯(とも)して、これに供養した。

不軽菩薩(ふぎょうぼさつ):
 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏(いおんのうぶつ)の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経(我深く汝等(なんだち)を敬う。敢(あえ)て軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえん)は何(いか)ん。汝等皆菩薩の道(どう)を行(ぎょう)じて、当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得(う)べし)を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈(あっくめり)また杖木瓦石(じょうもくがしゃく)の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤(きょうせん)した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢(お)え已(おわ)って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝巻下(七六六㌻)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類(たぐい)は不軽なり云云」とある。

師子尊者(ししそんじゃ):
 師子、師子比丘ともいう。釈迦滅後千二百年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那(かくろくやな)について法を学び、付嘱を受けて仏法を弘めた。付法蔵の二十四人の最後の伝灯者である。師子尊者が、罽賓国(けいひんこく)において仏法を流布していたとき、その国王檀弥羅(だんみら)は邪見が強盛で、婆羅門の勧めで多くの寺塔を破壊したり、多くの僧を殺害したりした。そしてついに師子尊者の首を斬ってしまった。だが、師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。なお師子尊者を付法蔵の二十五とあるのは釈迦仏を含めている。

提婆菩薩(だいばぼさつ):
 迦那提婆(かなだいば)のこと。迦那とは片目の意。釈迦滅後七百五十年ごろ、南インドの婆羅門の出身で、付法蔵の第十四番目の伝灯者。竜樹菩薩の弟子となり、各国を遊化して広く法を求めた。南インド王が外道に帰依していたので、王を救うために外道を徹底的に破折した。だがひとり凶悪な外道の弟子がいて、自分の師匠が提婆に屈服させられているのを怨んで、提婆を殺害した。しかし提婆はかえってその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだ。