坂口安吾『風と光と二十の私と』の感想



⚠️以下ネタバレ注意⚠️



これは、坂口安吾が小学校の代用教員をしていた頃の話である。安吾にとって印象に残った小学生たちが描かれていたり、安吾の恋が描かれている。


この作品が描いているのは、安吾の作家になる前の思い出や価値観だと思った。安吾は子供達に対してかなり優しい目線である。きっと優しい先生だったのだと思う。


安吾は美しい女の先生を好きになったが、彼女の名前はなぜか一切覚えていない。

だが、印象に残った女生徒たちの名字はちゃんと覚えている。

そこが不思議だと感じた。


なぜ先生の名前は覚えてないのに女生徒たちの名前は覚えているのか。

私個人的には、女先生に対しては憧れや崇拝の念を抱いていたから、綺麗な思い出だけ残っていて名前までは残らなかったのかなぁと感じた。

逆に女生徒たちの名前を覚えていたのは、妙な生々しさがあったからだと思う。


安吾の文章をちゃんと読むのは初めてだったが、爽やかな文章だと思った。


個人的に一番刺さった場面は、安吾にもう一人の安吾自身が語りかけるシーン。



下記引用

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「満足はいけないのか」

「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」

「なんのために?」

「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」

本当だろうかと私は思った。



君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。


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なぜこのシーンが刺さったかと言うと、安吾独自の人生観が表れているからだ。

苦しみや不幸から逃れたい人間のほうが大半だと思うが、安吾は自分自身に苦しむべきだと思っていてる。安吾は出家したいと語っていたりもして、おそらく仏教的な考えからこの考えはきてるのかなと感じた。


また他に印象に残った文といえば下記である。


『所蔵していたものといえば高貴な女先生の幻で、私がそのころバイブルを読んだのは、この人の面影から聖母マリヤというものを空想したからであった。』


安吾が好きだった女性の先生の話がまたここにも登場している。あまり物を持たない安吾が所蔵していたのは女先生の幻だと書いてあってロマンティックで素敵だと感じた。

こういうふうに言われたらきっと女性も嬉しいだろうなと感じた。安吾の先生に対する想いの表現が可愛らしくて好きだ。




安吾はとても優しくて子供思いの先生だと感じたので(特に男子学生に対する目線が優しい)先生を一年でやめたのも勿体無いと感じた。

だが、それだけ作家として生きたかったのだろうなと思った。


この作品を読んで、安吾の人生に対する考え方が垣間見えた。