こんばんは、疾風 遥です☆
 
昨日は雪が降って、ビックリしましたね!
週末は、実家に帰っていたので、帰ってこられなくなるかと心配しましたが、道路の積雪は路肩程度で、安全に帰宅できました。
 

今日は、ジェンダークエスチョン?について。

前回触れたLGBTQの「Q」ですね💡
私は自称ジェンダークエスチョンです。
自称としているのは、ジェンダークエスチョン自体にもまだしっくりとはきていないからです。
 
私の場合、社会的に男性とくくられるのが嫌いです。
「男の子なんだから泣かないの」
「重たいもの運ぶから男子きて~」
とか、それって男子で区別する必要ある?ってことに、いちいち心が反応してしまいます。
 
また、男女差別も双方向で嫌いです。
なぜか女性が差別されているシーンでも、女性目線で「差別だ!」と声を荒げたくなってしまうのです。
 
先ほど実家に帰った、と言いましたが、半分父の物で埋まってしまった自室に、父が買ったであろう一冊の本がありました。
 
それが、こちら。
 
男性性そのもの(自分を男性だと思って疑わないという意味)だと思っていた父がこんな本を買うなんて!と、息子ながら驚きました。
 
父に借りて良いか頼んだところ、「なんか思ってた感じと違ったし、良いよ~」とのこと。
 
まださわりの序説しか読んでいませんが、けっこう私が今まで考えてきたことに近そう!と、感じています☆
 
「男性」というものに、男性自身は実はとても苦しめられているんじゃないか、と思うんです。
 
物心つく前から、男の子だからと「ヒーローもの」や、「アクションもの」、強くたくましくあれ、という意識を浸透させられてしまっているように思います。
 
特に序説に書いてある中で、最も共感したのが、
「男性性について話すとき、”生物的性別(セックス)”と、”社会的性別(ジェンダー)”が混同される」
という点。
私も生物的性別が男性である以上、男性性全てを否定してしまっては自分自身を否定することになってしまうし、決して男性全般を非難しているわけではないのです。
 
そして、男性がこういう声をあげることで、「女性の味方をして女性から気に入られようとしているんだろ」という妬みのようなものを感じることがあります。
 
まぁ私は異性愛者ですから、全くない、とは言い切れないかもしれませんが、そもそもの着眼点が違います。
女性を保護するつもりで男性を批判しているわけではなく、男性が社会的にもつ「男らしさ」について、男性自身がある種の呪縛に捕らわれているんではないのか、と思うのです。
その説明をするために女性と対比して説明しているだけなので、男性を非難するつもりはないのです。
 
やっと世間でも「女らしさ」に疑問符がついてきましたが、同時に「男らしさ」についても疑問を投げかけよう、ということです。
 
男性がスカートをはいたり、ヒールのある靴をはいたり、髪を長く伸ばしたり、メイクをしたり、しても社会的に問題ないんじゃないかと思うのです。
 
逆もしかりで、#KuTooでも上がっていますが、ヒールのない靴をはいたり、髪を短くしたり、ズボンをはいたり、ノーメイクで出かけたり、しても社会的に問題はないと思います。
 
ゆえに、私は女性になりたいわけではなく、「男らしさ」が嫌いということになります。
しかし、全てを批判、否定できるはずもなく、私の中に無意識に存在する「男らしさ」が顔を出すこともあります。
そんなとき、男性にしろ女性にしろ「それって、男らしさ、じゃないの?」って言ってもらえたら、「あ、ほんとだ!じゃあ、こう考えを変えよう」と思えると思うのです。または、「この男らしい部分は自分の個性かもしれない」と考えることもできます。
大切なのは、無意識下にある「強要されている”らしさ”」を、男女問わず掘り出し、考えることだと思います。
 
もちろん、「男らしさ」「女らしさ」を持つな、という意味でもなく、他性をしいたげるものでさえなければ、自分が持ちたいと思う「男らしさ」「女らしさ」は、持っていても良いとも思います。
 
同時に、マイノリティが「マイノリティらしく」振る舞う必要もなければ、障がい者が「障がい者らしく」振る舞う必要もないはずです。
 

実際は、マジョリティもマイノリティも存在せず、それぞれの個性が光る世の中のように思います。

当たり前だと思っているものこそ、隠された真実があるように思います。
 
私の自分の中のジェンダー議論に結論はないのかもしれません。