だいぶ衝撃的だったのでまだ寝れず。
気持ちの整理ついでにブログにログを。


1月1日、新潟帰省4日目。

坊っちゃん新年早々38度の発熱でどうやら機嫌があまり良くない。

こんなこともあろうかと東京から持ってきたカロナールを飲ませ、木造の義実家の2階でパパと坊っちゃんと私の3人でお昼寝。

私だけ目が覚めてスマホをいじって芸能人の結婚ラッシュのニュースに目を通していると、


あれ?なんか揺れてる……???


と、思った次の瞬間、地震のアラートが大音量でパパと私のスマホで鳴り出すやいなや、さっきよりもめちゃくちゃ大きな揺れ。



あ、これ、なんかやばくね…?




と思った瞬間、

パパがバッと起きて寝ている坊っちゃんの上にとにかく布団を被せまくり、私も私で毛布を被って身を隠し、揺れがおさまるのを待ち。

しかも木造建築だからめちゃくちゃ揺れる。

パパが揺れが納まった瞬間、とっさに1Fに降りようとしたのを「まだ余震が来るからやめなさい!」と窘めて、少し経ってからようやく1Fに避難。

坊っちゃんも幼いながらに、両親のただならぬ状況に目を丸くして驚きながらも、いつもと違う感じを察知したのか大人しい。

「すごい揺れたねぇ。」と坊っちゃんに話しかけたら、「ねぇ〜」と相槌を打ってくれたことに少しなごみつつ、1Fのテレビをつけると地震速報。


津波の恐れがあるので今すぐ逃げてください。
今すぐ避難してください。


というアナウンスを見て、パパが
「どうする?にげる?」と。



いや、当たり前だろ。
逃げない選択肢あるわけないだろ…!


しかしながら、私、パジャマ。

このまま逃げても大丈夫だけど、恥ずかしいとかじゃなくてなんせ寒い。せめてヒートテック着たい。

あと、最悪の場合家が倒壊したら中から荷物取り出せないらこのパジャマのまま東京戻るのだいぶきついぞ…

と思い、ダッシュでGパンとトレーナーに着替え、ダウンを着込み、坊っちゃんグッズが入ったリュックを背負ってスマホの充電器だけもって家の外に飛び出す。



しかし。

やっとパパが出てきたと思ったらジジババがなかなか外に出てこない。


挙句、
「みんな避難してる??」とババ。


いやいや、いまみんなが避難してるかしてないなんてどうでも良い。「みんな」がどうするかじゃなくて、生き残る可能性が高い選択肢を選ぶだけであって、他の人が逃げてるか逃げてないかなんてどうでもいいから!

とさすがの私も家の中でモタモタしている義両親へ大声で叫ぶ。こんな時に実の両親とか義両親とかもはや関係ない。生きるか死ぬかの話。

あと、今書いてて思ったけどこういう時咄嗟に何がいるか、何を持っていくかって、ある程度もう「これだけ!」って決めて判断しないと「あ、じゃああれも!あ!これも!」となって埒が明かない。



なんとか義両親と私と夫、坊っちゃんの5名揃って義実家最寄りの高校が避難所に指定されているので、そこへ向かう。

向かう道中、震源地が石川県とニュースで見たのを思い出し、石川に住む大事なお友達が大丈夫だったか、万が一があったらどうしようか、と考えると涙が出てきた。

(結果インスタ経由で連絡がとれ無事とのこと、良かった。)

高校に到着すると、避難にきた近隣住民が沢山いて、みな津波を避けないと行けないのでとりあえず校舎の3階へ避難。

我々は割と早く着いた方で、最終的にはこの廊下がごった返す位の人が避難しにきた↓↓↓

津波はだいたい3mなら、3階以上の建物の上なら安心とのこと。


パジャマにスリーパーの状態でアウターだけ着せられた坊っちゃん。

可哀想に、新年早々。



どんどん人が3Fにあつまってくる。

中にはペットの犬連れの人もいたりして、その度に坊っちゃんが「わんわん!」と言うからそれもまた少し和む。

とりあえず売り切れになる前に自動販売機で坊っちゃん用の麦茶を確保。あとは町内会の有志の方々が色々校内アナウンスで情報を伝えてくれたり。

その情報を聞きながら不安な気持ちで過ごしていると、ジジが家に荷物を取りに行くと言い始め。


こういう時って、

  • とにかく家族が離れ離れにならない事
  • 戻らないこと

が鉄則だし、

戻ったことによって木造建築の自宅が倒壊して出れなくなったりしたら困るな…と、行くなと止めるも言うことを聞かないジジは周りの制止を振り切り自宅へ戻る。


20分後くらいに戻ってきたジジ。
取りに帰ったのは「懐中電灯」


いや、要らね〜!!!
今絶対要らね〜!!!


と夫も私もびっくり。



ババは久しぶりに会う近所の人たちと会話したりして、なんとか不安な気持ちを人と共有することで安心しているような感じ。

我々家族3人はというと、とにかく坊っちゃんがいちばん生き残る可能性が高い選択肢はなんだろうか、と議論。



木造建築の家に戻ったとて、また地震が来たら倒壊して閉じ込められるか、最悪の場合そのまま下敷きになって死ぬパターンもあるので、とりあえず、津波の避難勧告が解除されるまではこの高校にこのままいること。

とはいえ、避難勧告が解除されるのが夜中になるのであれば、どのみちこのまま高校で一夜を過ごすことに決め。


高校に避難してから2時間程度が経過した頃には、近隣住民の方々は避難勧告が解除されるのを待たずして帰宅し始める。

町内会の有志の方々が、もし自宅に戻らず泊まるのであれパ非常食だったり、毛布や、貯水のあるここから徒歩5分程度の別の学校への移動を勧めてくれたので、そちらへ移動。



その前に坊っちゃんのオムツがそろそろ限界を迎えそうなので、ジジとババは先に移動先の学校へ行ってもらうことにして、さすがに可哀想だとオムツを取りに1度実家に戻ることに。

急いでオムツとバナナと食パン、坊っちゃんの明日の食べ物だけをとって、倒壊が怖いのでまたすぐ家を出て第2の避難所へ向かう。



11キロの坊っちゃんを抱っこして早歩きで歩くのもなかなかつらい。

避難所に向かっている最中、義妹から電話。車で避難所まで迎えに行くから義妹の家にみんなで来たらいい、とのこと。ありがたい。

倒壊しそうな家で余震に脅えて1晩過ごすよりめちゃくちゃ良い、ありがとう。。


義妹の家に行くことに決め、第2の避難所到着、ババを見つける。



しかしジジが居ない。またかよ……

話を聞くと、

我々が来た時に分かるように入口で待ってる、とジジはそう言ってババから離れたと。

しかし入口にはジジは居なかった。




義妹が車を飛ばして来てくれるのに、今度はジジが居ない……なんてこった。

しかもジジ、全然携帯見てない。




ババになんで止めなかったの?と聞くも、止めたけど無理だったとのこと。さすがに夫もブチ切れ。


義妹がこの余震がある中迎えに来てくれたのに、ジジが見つからずみんなで行けないのが最悪のパターン。

夫が怒りながら校舎の中を探しに。

その間我々は貸し出された毛布をいただいて、非常食用のビスケットを坊っちゃんに食べさせ。

卵入ってなかった、よかった。

1歳が食べるにはだいぶ硬い。


やっとこ30分後くらいにジジ発見。どうやらまた家に戻っていたらしい。マジでやめてくれ。。。


ナイスタイミングで義妹到着。
旦那さんと息子も来てくれた。


そうして地震発生から5時間後。
義妹の家に到着してようやくホッと一息。

いま義妹の家の2階のお部屋に通してもらって、パパは寝袋に、坊っちゃんは私と共にソファを借りて寝てます。

坊っちゃんは、さっき38.4度まで熱が上がりカロナールを呑んでグースカピー。ようやく寝ました。





いや〜、年明け初日から波乱の1日。
こんなことがあるなんて。

高校生の時に新潟の中越沖地震も経験してきたけど、今回はなんて言うんだろ、守られる側から守側になったからこそ、1個1個の判断がすごく大事なんだな、と身をもって感じた日だった。


とにかく坊っちゃんが生き残るには、

その為にどうすればよりその確率が高まるか、を状況に応じて都度選択し続けなければいけないんだけど、夫とその方向性のベクトルはちゃんと合うものの、ジジやババといった年齢も世代も違う人たちとは勿論方針が合わないわけで。

あの世代の危機感のなさ、危機管理能力の欠如はやばいな、ほんとに。

あと、伝言ゲームみたいに情報が錯綜するのもマジでだるかった。スマホを見ろスマホを。



東京からこっちにきてこんなことになるなんて災難だったね、とババに言われた時、


まぁ確かに災難は災難だが。逆にいる時でよかった。じゃ無かったらあれだけテレビで

逃げてください。
避難所に避難してください。

って流れてても避難してないでしょ?


と聞くと「うん、逃げてなかった」と。



おいおいおい。
逃げろよ…逃げてくれよ。



このくらい意識が違うもんなんだよ、ほんとに。



とにかく、今回で学んだこと。


  • みんなが逃げないから逃げないとか、他人に自分の命に関する判断を委ねてはいけない
  • とにかく生き残る可能性が高い選択肢を選び続けること
  • 勝手に自宅に戻るという選択肢は絶対だめ
  • 家族で避難するなら全員が方針を理解すること
  • 自分だけ別行動は以ての外


断水しちゃってるので、
明日には復旧するといいなぁ。

あと新幹線も復旧してもらわない事には東京には帰れない……


新年早々波乱の幕開け。

さて、寝れる時に寝ます。
おやすみなさい。