今日は帰省した長女の車でドライブにいきました。
リフォーム中の家→今度食べにいきたいイタリアンレストラン→近くの土手→手ぶらで日帰り温泉→子どものころにおばあちゃんに連れられて行った、懐かしいうどん屋さんで鍋焼きうどんのお昼→IH調理器具などのショッピング→元荒川の桜並木を通って帰宅・・・
といった盛りだくさんのコース。
荒川の土手は今、からし菜が満開です。
なごみました・・・。なごむ、ということばがぴったりの時間でした。
この発光するような黄色と緑の世界は、私のこころの原風景・・・。
このひろがり。
春浅き清々しい風が運ぶ淡い香り。
どこまでも歩いていきたいような、どこまでも歩いていけるような、
ひらかれた、力に満ちた感情。
からし菜の若い芽のところを摘んで、さっとお湯をかけて辛味を引き出し、今夜の精進揚げに添えてみようと思い、作ってみました。
ところが、ほろ苦いだけでちっとも辛くありません。
芥子のようなぴりりとするあの辛さがないってことは、
これはからし菜ではなくて、菜の花なのでしょうか・・・。
からし菜よイズコへ~???
何もねえから 花煮てくうべな
おてんとうさま あっち行った
吉野せいの『洟をたらした神』のなかの一文をふいに、思い出しました。
日暮れの畑道で4歳の娘が無心にいったことばを、詩人である父(三野混沌)がそのままノートに書き付けたという。その夜、菜の花を煮て胃袋を満たす家族。その暮らしの貧しさを侘しく恥じる母、吉野せい。
けれども話はそこで(貧しさの嘆きだけで)終わらないのです。
彼女はこどもたちのなかに「羽目を外した無情なしつけに時には阿呆のように順応しながら」「突っ放されたところでひとりで生きている」「むしりとれない芯を持つ荒根のような」ほとばしる命の輝きを見出すのです。抑えても抑えてもほとばしり出る命の発露を見るのです。
吉野せいさんは、70歳を過ぎてから生きてきた道のりを綴り始めました。文筆家としての時間は短かったけれども、ぎゅうっと凝縮された、凄みのある数編を書き残しました。私のこころに刻まれた一冊です。byからし菜