【かくがり物語】

  第1章  第1話 「たのみの綱、切れた」

         第2話「眠れぬ夜」

        第3話「歩道橋の下で」

        第4話「告白・・・慈愛に満たされる瞬間」

        第5話「人を好きになる理由・・・そのひとつ」

        第6話「それぞれの道へ・・・」



  第2章  第7話「信じることができない・・・」

        第8話「狂乱と冷静さの間で・・・」

        第9話「補欠という苦汁」

        第10話「許されない迷い」

        第11話「真心の千羽鶴」   


  第3章  第12話「青いキーホルダー・・・LOVEの意味」

        第13話「人の輝き方」

        第14話「灯台の灯り」

        第15話「事実と真実」

        第16話「既成概念と先入観」

        第17話「心が満たされるということ」


  第4章  第18話「グランドのない野球部」

        第19話「社会のしくみ」

        第20話「いなくてもいい存在」   

        第21話「なくてはならない存在」

        第22話「本当の勝利を目指して」

        第23話「ひとりひとりの笑顔が本当の勝利」



【詩】

  新世紀の朝   別れからの旅立ち   天使   おやじへのエール   


  日本人サイコー   野球狂の詩   親として   浪漫飛行   愛の詩   


  最後が見えた瞬間   与えられたモノでなく   


  失敗という種 成功という実   原点(還るところ)   待つ   


  弱さを表現する強さ   敗北の中にある真の勝利      


  満たされた心

    


【徒然五行詩】


  離れていても   壊しながら   自分の中にある


  永遠の生命永遠の成長   これって本物だね


【その他】


  新潟ボランティア体験記   能登ボランティア体験記   


  格差格差と言いますが   はやぶさ乗車リポ ート   


  歯医者で頭にあたるものとは   私の生命の使い方



【ブログネタ】 


  

  一人じゃないっていうこと   自家用車の維持費を考えたら


  「当たり前だろ!お前に決まってんだろ!」   いくつになってもおばさんじゃありません


  ポケット   私を取り扱う際の注意事項   立ち位置は人柄の表れ


  落合監督なら当然です     


【奴が言うには・・・】

 

  友達のタクシー運転手の話


  友達の教師の独り言(詩)

で あ い・・・       

 タクシーの運転手も三年間の修業の中で現場から学ぶことはほぼ身につけ、いよいよ介護タクシーの開業の現実化に向かおうとしていたさなか、以前に教育委員会に打診しておいた養護学校の非常勤講師の話が巡ってきました。実際の教育現場で障がいについて勉強することは自分のスキルアップには絶好の機会なので、2009年4月より1年間だけのつもりでありがたくお引き受けすることにしました。
配属されたのは高等部1学年。ちょうどうちの長男と同い歳だったこともあり、また以前教職に就いていた頃の知り合いも多かったので、すぐに現場に溶け込むことができたことがありがたかったです。

 ここで彼らと出会い、接して、もうすぐ1年が経とうとしています。この一年間で自分の中で一番変わったのは「自身の生命の奥のほうにあった差別の感に気付き、それがやっと取り払われた」ということでした。

 それまでの私は、自分自身の中にある「差別の感」というものを全く意識することすらできませんでした。たぶん「自分には差別する意識などはない」と思っていたのでしょう。42歳の春までは・・・。今はその恥ずかしい自分がはっきりと自覚できます。
 それまでの私の目には、全く映りませんでした。  
今の私は、「世の中にこんなにたくさんいるのか」と思うほど、町中で、障がいを持つ人に多く出会います。
 それまでの私は、心を置き去りにしていました。彼らに出会っても、彼らの人生の背景を想像する心がありませんでした。考えてみようともしていませんでした。自分自身のことではなく、どこまでいっても他人のことでしかありませんでした。  
今の私には、真心とまではまだまだいきませんが、何か困っているのではないか、何か自分にできることはないかと、心から彼らを見守ることができるようになりました。

 みなさんは「日本理化学工業」という会社の名前を聞いたことがありますか。
 この会社は1973年に設立されたチョークの会社で、1960年(昭和35年)にはじめて知的障害者を雇用して以来、一貫して障害者雇用を推し進めてきました。1975年には知的障害者多数雇用モデル工場を建設し、現在74人の社員のうち、53人が知的障害者です。障害者雇用率は約70%で製造ラインはほぼ100%知的障害者のみで稼働できるよう、工程にさまざまな工夫を凝らしています。
 この工場の敷地内にある「働く幸せの像」にはつぎのように言葉が刻まれています。

   導師は人間の究極の幸せは、
   人に愛されること、
   人にほめられること、
   人に役に立つこと、   
   人から必要とされること、  
   の四つと言われました。
   働くことによって愛以外の三つの幸せは得られるのだ。
   私はその愛までも得られると思う。

 

 彼らと接する中でひとつの大きな質問にあたりました。それは「彼らの幸せとは何なのだろう」ということです。今の時点でたどり着いているとりあえずの答えは「私自身も含めた周りの人たちを感動させてくれたり、成長させてくれたりすることが、彼らがこの世に生まれてきた意味であり、それが幸せだと言えるのか」ということです。
 しかし、それはやっぱりまだまだ以前の私の「どこまでいっても他人のこと」の域でしかないことであるような気もします。
 今は、自分が介護タクシーの仕事をしながら、彼らの幸せな人生をコーディネートするお手伝いが少しでもできないものであろうかと、様々な現場の人の話を聴きに行くことを繰り返しながら試行錯誤しています。

 もしも可能ならば、彼らが卒業するまでの三年間は、ここで働かせていただき、この養護学校で多くのことを学んで、彼らと一緒に卒業したいと思っています。





   参考文献  「働く幸せ」(仕事でいちばんたいせつなこと) 
                     日本理化学工業(株)会長  大山泰弘著

NKT(西原介護タクシー)の開業準備に入りました。
NKTは(笑顔(ニコニコ)を守る(キープする)タクシー)という意味も込めています。

当分の間は変則営業になると思いますが、夜間や休日などを中心に呼ばれればすぐにお迎えに行く精神で頑張って参りますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

追伸  よって、このブログを使ってご利用される方々へ、情報を発信したいと思いますので、ブログの方向性も今までとは少し違った方向へと変化して参りますことをご了承ください。



 
  

かくがり物語(介護タクシーの開業を目指す野球バカのださすぎる詩と文章) 
 
 差し出された仕出し弁当でまずは腹ごしらえをしながら、現場に入ったボランティア(自分の含めて全部で4人)は初めてお互いの存在を意識した。
 50代の女性が率先して自己紹介を始める形でその場を仕切った。
 その女性は大阪で看護の専門学校の校長をしていると言いながら、名刺を配った。
 2人目に自己紹介した人は能登出身で、現在は新潟で看護婦をしている40代の女性。
 そして、3人目に自分が自己紹介をした。
 介護タクシーの開業を目指し1年前からタクシーの運転手をしていることや、川崎から小6になる息子と二人で夜行バスで来たことをかいつまんで口早に話した。
 最後に千葉から来た女子大生が自己紹介した。ヘルパーの資格や経験なども全くなく、他の人の自己紹介を聞きながら次第に不安になってきてしまっている気持ちは、彼女が話す前から十分に伝わってきていた。とにかく来た、というその女子大生は、ボランティアには決してふさわしいとは言えないほどのきれいなスカートをはいていた。今日泊まる場所も決まってなく、自分のことばかりを心配しているように思えてならなかった。
 お互いの自己紹介を聞きながらお茶をすすり、昨日まで全く縁もなかった日本の各地から集まった4人のボランティアは、手際よく昼食を済ませたと同時に「とにかくできることをやらせてもらおう」と、同じ使命感に立っていた。

 老人ホームの現場は通常の倍以上に利用者の数が膨れ上がっていた。
 食事にありつけて、寝る場所があるだけでも御の字ということでここに急きょ収容されてきたお年寄りが、お互いの人間関係もない中で、心の休まらない一日一日を送っていた。

 現場の職員も被災者である。自分の家や家族の心配もあり、利用者が倍になっているにもかかわらず、いつもよりも少ないスタッフでふんばっていた。

 「帰りたい、おうちに帰りたい・・・」
 「うちに電話して・・・」
 「孫が学校から帰ってくるから、家にいてあげないといけないのよ・・・」
 それぞれのお年寄りが、スタッフに手当たり次第お願いをする・・・。おねだりをする・・・。助けを求める・・・。わがままを言う・・・。泣く・・・。
 不安な気持ちが伝播する。さらに不安になる・・・。

 佳紀の心の中には、息子が3歳の時に喘息で入院した小児病棟で、面会の終了時間を知らせる蛍の光の音楽をバックに、親と別れるのが嫌で嫌で泣き叫ぶ喚き声が飛び交う、あの光景が思い浮かんでいた・・・。

 つづく 

 
 心が折れる寸前

 いいねえ 人間臭くって

 弱さを隠さない

 しなやかな強さ

 結果が出ない時こそ

 真価が問われるのかな?
 かくがり物語(介護タクシーの開業を目指す野球バカのださすぎる詩と文章) 

 凄まじい大地震であったにもかかわらず、実は亡くなった人が1名というのはなぜなのだろうか・・・?
 
 地震が起きたその日は、多くの地域で「雪割り草まつり」のようなイベントが催されていた。さらには昔から住んでいる人が多く、人と人とのつながりは都会のそれとは比べ物にならないくらいにしっかりしていた。だからこそ、この街の素晴らしさは、瓦屋根が定着した文化でありながらも、死者に関しては奇跡的な数字となって現れていた。

 すべての建物にはその被害状況を示した黄色と赤色の貼り紙がされていた。それには、全壊や半壊、さらにはどの部分が弱まっているかなど、専門家の判断が記されていた。建物が受けたダメージは外見だけでは決して判断ができなかった。
 だが、被災した側の心情としてみれば、なんとか壊れずに建っていてさえしてくれればいいと思ってしまう。
 中に入りたい。できれば中で眠り夜を明かしたいと思ってしまう。どうしても大丈夫な方へ考えてしまう。そう考えたいし、考えるのが自然である。でも、余震がきたらつぶれてしまう。中にいればつぶされてしまう可能性だってあるのだ。
 なので、その紙が貼ってある建物には絶対に入ってはならないことになっているのであった。
 

 車の窓から見えてきたその特別養護老人ホームは見るからに新しく、まだ建ってからも間がなく、きれいでしっかりとしたコンクリートの建物だった。
 それでも、車から降り正面玄関に近づくと、地面に接している部分の外壁はあますところなく大きく割れていて、地面側のアスファルトも激しく隆起していた。それでも、この建物には貼り紙はされていなかったのが安全な証拠である・・・。

  つづく

 

  
 
 


 日本における災害時のボランティア活動は、1995(平成7)年1月17日午前5時46分、淡路島北部沖の明石海峡を震源として発生し6433人の死者を出した阪神淡路大震災からその教訓を生かし、さらに進化しながら今日に至っている。

 さて、能登でのボランティア活動は10時から16時までの1日6時間。数日に渡って活動したい場合の泊まる場所や手段の提供は一切なく各自の責任である。
 まずはじめに受付を済ませる。小学生は不可。中学生は保護者同伴であれば可。高校生以上からが個人の意志で参加できる。
 受付を済ませたら、保険に入る。活動中に怪我をすることもあるからだ。
 それが終わるとテントの中で待機して、災害現場からボランティアの要請が入ると、その都度、スタッフからその内容とそれに必要な人数が伝えられて、希望した者が出動することになる。

 ここで新潟柏崎の話を加えたい。

 能登と柏崎では季節が違い、能登は3月。まだまだなんとなく寒さが残る時期であったのに対して、柏崎は7月。もうすでに暑かった。
 なので、柏崎の場合はテントのまわりにはとにかく水分補給ができるようにスポーツドリンクのタンクが用意されていた。
 また、活動後に汗を流せるように無料で解放した日帰り温泉も用意されていた。
 さらには、帰りの高速道路代金が無料になる通行許可書を柏崎市長名で発行してもくれた。
 ちなみに、住民が避難している体育館のような場所へは、一般のボランティアはそのプライバシーを守るために一切足を踏み入れてはならないことになっていた。

 さて、話を戻すことにしよう。

 テントで待機していた私は最初に依頼された活動に手を挙げた。
 これは災害地にあるコンビニエンスストアなどの商店数十か所に、リアルタイムで被害状況や給水場所などのすべての情報が瞬時にわかる「携帯バーコード」のポスターを掲示しに行く作業だった。
 広く普及している携帯電話というアイテムを活用しての画期的な試みであると、役所の方が説明してをくれていた。
 その話を聞きながら私には少し前から気になることがあった。
 実は自分の携帯電話が何度か繰り返し鳴ったのである。
 
 最初の数回は説明に気を取られて正直気がつかなかったのだが、その後の数回は気がついてもとらなかった。自分は今、能登にボランティアに来ているのである。誰かからの電話に、しかも、大事な説明を聞いているこの時に、携帯電話なんかに出ようとはこれっぽっちも思わなかった。がしかし、切れても切れてもやけになり続けるその携帯に目をやると、全く知らなような市外局番の着信履歴が残っていた。

 役所の方の話がひと段落しバーディーを組むと、その少しの間に伝言メモを再生してみた。すると、さっき離れたばかりの災害本部からの伝言だったのである。
 折り返しかけてみると、電話の向こうからはヘルパーの資格を持っていることを確認され、すぐに本部の戻るようにとのこと。そのことをたった今、意気投合してバーディーを組んだ中年の男性に頭を下げながら謝りながら説明し、私は息子のいる災害対策本部に戻るため、早足でさっき来た階段を駆け降りた。

 そこでの新しい要請とは「特別養護老人ホームに行き、現場の方の手助けをする」とのことだった。
 数分もたたないうちに、息子の姿も見ないうちに、私は他の女性3名とともにワンボックスの車に乗り込んで現地へ向かうことになった・・・。


 つづく
 
 


かくがり物語(介護タクシーの開業を目指す野球バカのださすぎる詩と文章) 

空はどんよりと曇っていた。早朝から冷たい雨が降っている。気温も上がらず、半島は寒い一日を迎えようとしていた。
 
 「川崎から来てくれたんや!ありがとう!」
受け付けのテントで女子高生ボランティアが若すぎる黄色い感激の声をあげた。
 「11才と17才はどうやろか」と高校生特有の話で盛り上がっていた。

 小学生は初めから無理があることは、ホームページを開いた時からわかっていたが、あえて連れてきた。

 「今度、日本のどこかで何かあったら一緒に行くぞ」
 転職した時から常日頃息子たちには言っていた。長男は部活の試合が入っていたので今回は不参加だったので、次男坊との初めての二人だけの旅行が、初のボランティア旅行に重なることが本決まりになったのは、出発の前日3月29日のことだった。

 テントの中にいた年配の男の人が声をかけてくれた。
 「じゃあ、君はそこに座って、受け付けを手伝ってくれるかな」
 中学生から保護者同伴で、とのルールを越えて、「できることを何でもやらせてもらいたい」という熱意をすぐに感じ取ってくれたその人の、粋な計らいが嬉しかった。

 息子は行きの京浜東北線から眠っていた。
 品川からの山手線、新宿からの夜行バス、翌朝の金沢からの七尾線、七尾からの能登鉄道、そして穴水から、ここ門前までの路線バス・・・と、全ての乗り物も、彼にとってみれば心地よいゆりかごでしかないのか?爆睡に爆睡を重ねられる。親の知らないところで、いつのまにかに「いい心臓」を養っていた。

 2007年(平成19年)3月25日(日)午前9時41分58秒。石川県能登半島を襲ったマグニチュード6.9、震度6強の大地震は「能登半島地震」と命名された。 これまでの歴史の中でほとんど地震の揺れを知らなかったこの地方が、初めて体験するにはあまりにも大きすぎた。

 門前バス乗り場から町役場までのメイン道路の両サイドの家屋が、その爪痕の凄まじさを物語る。黄色い紙の「要注意」と赤い紙の「危険」の貼り紙がいたるところに貼られている。
 そこには「かわいそう」などという言葉は、あまりにも似つかわしくない。心が折れそうな土壇場の状況で、明日に目を向けなければ、一瞬にして暗やみのどん底に落ちていってしまいそうになる。人々を勇気づけるのは言葉ではなく行動しかないことを初めて肌身で感じた。

 そんなところに、大人しかいないところに、底抜けに明るい小学生が、ボランティアの一員として、今、立っていた。


つづく



最愛の妻を突然不慮の事故で亡くし、残された一人息子アキラを男手ひとつで育てるヤスさん。


いつまでも子どもは子どもだが、でも大人へと成長していく事実への不安と喜び、そして、自分の手元から離れていく寂しさがたくさん詰まっていました。


家族は最後はバラバラになっていく・・・。

でも、死ぬまで、いや、死んでも家族であることに変わりはない・・・。


一緒にいられるのは本当に少しの間なのですね。

よく「全員野球」なんて簡単にいう



サードがゴロをさばき全力でファーストに送球する


サードが全力を出せるのはファーストのうしろにバックアップがいるおかげ


サードが安心して全力を出せるのはライトのおかげ


サードのナイスプレーはライトのナイスプレー


サードはライトに感謝して・・・


ライトはみんなから讃えられているサードの姿を嬉しく思い・・・


自分の陰の努力を誇りに思う


ベンチの控え選手がライトに「ナイスカバー!」と声をかける・・・


自分の陰の努力が認められるチームを誇りに思う



誰かに支えらているから頑張れる


「全員」とは試合に出ている選手だけでなく


ベンチにいる控えの選手も


練習を支えてくれた後輩も


朝飯を作ってくれた家の人も


グランド整備のおじさんも


今応援してくれているおばさんも


その存在のありがたみがわかるということ


それが「全員野球」



ひとつひとつのプレーの中に


キラキラとした人間模様がある



だから野球はおもしろい