「ドトールってさ、地獄だよね。」
何故か悲しげにその柳眉を顰めながら、
そして、何時ものような気怠げな声色で、女はそう嘯いた。
そう嘯く女の前にあるのは、綺麗に平らげられたジャーマンドッグの皿と、半分ほどになったベイクドチーズケーキ、そして、透明なプラコップに八分ほど残されたタピオカミルクティーだ。
それらの全ては、俺の奢りなのだ。
店の窓から差し込む中秋の陽は、力強さを欠く割にはどこか刺々しく、店内に流れる音楽は、まるで氷の溶けきったアイスコーヒーのように精彩を欠いているかのようだった。
そんなぬるま湯の如きこのドトールの一体何処に地獄を見出していると言うのだ、この女は?
そしてあれだ、人に一方的に奢らせておきながら、また随分な口ぶりだ。
まぁ、何かに付け「地獄」と言い出すのはいつものことなのだが。
そしてあれだ、一体何事かと俺が聞いてくるのを虎視眈々と待っているんだ、この女は。
不愉快、と表現するにはやや度が過ぎるかもしれないが、
でもちょっとムカつくと言うくらいならば許されるだろう。
しかしだ、この女の突拍子も無い物言い自体は面白くない訳でもないので聞いてみたくもある。
基本的に理不尽極まり無く、そして、色々とムカつくことも無きにしも非ずな女なのだが。
心の中にて鬱屈に満ちた溜息を付いた後、俺はおもむろに女に対し、「地獄」の理由を問い掛ける。
女は小さく物憂げな溜息を付き、そして、勿体ぶった感じにその口を開く。
待ち合わせの時間を30分程過ぎ、女は漸くドトールの入口へと姿を現わした。
店内に入るや否や、女はカウンターまで躊躇無く歩み寄る。
そして、店のフロアを素早く見回し、二人席に陣取る俺の姿を見出すと、にこやかな笑みを浮かべながらその右手を挙げて俺を差し招く。
またかと嘆息を漏らしつつ、俺は席から立ち上がってカウンターへと向かう。
タピオカミルクティーとジャーマンドッグ、そして、ベイクドチーズケーキとを奢らされる羽目となる。
品目はともかく、これは恒例の流れとなってしまっているのだ。
支払いを済ませた俺は、注文の品を待つ女をカウンター前に残し、元の席へと戻る。
注文した品、そして水の入った二つのコップをトレイに載せて、誇らしげな笑みを浮かべながら、女は俺の待つ席へと近づいてくる。
そして、向かい側の席へと座る。
女は無言で手を合わせてからジャーマンドッグへと齧り付く。
ソーセージの皮がプリプリンと弾けるのが響き渡らんばかりの勢いのいいかぶり付きっぷりだ。
それはまるで、ジャーマンドッグはこう食うべしという見本のような食べっぷりだ。
ジャーマンドッグを瞬く間に平らげた女は、ナプキンで口元を拭ってから、コップの水を一気に飲み干す。
そして、口直しを言わんばかりにタピオカミルクティーを二口ほど飲んでから、今度はおもむろにフォークをその手に取り、ベイクドチーズケーキを4つに分割する。
白い皿にフォークがぶつかる硬い音が仄かに響き渡る。
水と交互に、飲み下すかのようにして二欠片のベイクドチーズケーキを平らげてから、女はようやく落ち着いた素振りを見せる。
ゆっくりとタピオカミルクティーを飲み、ストローで所在なさげにプラコップの底に沈むタピオカをつついている。
その悠然とした佇まいは、恰も1時間前からこの席に座っているかのようだった。
唇の左端をやや持ち上げ、何故か蔑みの色を湛えた目で俺を見遣った後、女は周囲をゆっくりと見渡す。
そして、タピオカミルクティーのプラコップを机の上へと置き、腕を組んだ後に深いため息を付く。
俺は思わず溜め息の訳を尋ねる。
女は物憂げに答える。
「ドトールってさ、地獄だよね。」
随分な言い草だ。
自分で待ち合わせ場所をドトールと指定し、自分が一方的に決めた待ち合わせ時間に30分も遅刻し、そして、それが恰も自然の理であるかのように俺に奢らせる。
それなのに「地獄」か。
まぁ、いつもの言い草なんだが。
しかしながら、その言い分を聞いてみたくもある。
やや癪に障らないでもないが。
心の中にて溜息を付き、そして、俺は女に地獄の理由について問い掛ける。
女は物憂げに口を開く。
「世の中の全ての場所をさ、天国と地獄とに分けるとするでしょ。
そこで得られる快と不快、その差し引きがプラスだったら天国側、
マイナス側だったら地獄側だとするでしょ。
そうすると、ドトールは地獄になるの。」
いやいや、これだけ勝手に飲み食いしておきながら「地獄」はないだろう。
一方的に奢ってもらっておきながら、それは違うんじゃないかと異議を申し立ててみる。一体何が不満なんだよ君は、と。
女は溜め息を付き、右手の親指と中指で両のこめかみを揉み、そして、物憂げな溜め息とともに語り始める。
「誤解を与えたのなら謝るわ。
ご馳走して下さったことには感謝しているのよ。
でもね、『地獄』ってね、そういう話じゃないのよ。
お願いだから分かって頂戴。」
「見て、この陽の光。
眩しいし、光の色合いは安っぽい刃物みたいに冷たいし、
そして差し込むこの角度が大嫌い。
太陽の光は上から降り注がないと駄目なの。
光としての矜持ってものに欠けてるのよ。」
「それに客層も嫌。
いかにもドトールって感じ。
みんな鞄が四角いのよ。
みんな鞄が黒なのよ。それも嫌。」
「この水飲みコップも嫌なのよ。
食洗機で洗い倒してるから細かな傷でいっぱいよ。
透明なんかじゃなくて、最早、灰色よ。
見ているだけで惨めな気持ちになるの。」
「ドトールで過ごす時間は好きよ。
あと2時間は居られるわ。
パンも美味しいし。」
「でもね、ドトールに居れば居るほど、
寒々しい太陽の光とか、四角の鞄とか、
そういった嫌なものが、少しづつ少しづつ、
私の中の何かをヤスリのように削り取っていく、そんな感覚に襲われるの。
だからドトールは嫌。
得られるものもあるけれども、失うもののほうが沢山。
だから、ドトールは地獄なのよ。」
相変わらずな口ぶりだ。俺は思わず突っ込む。
いや、それじゃ、もう、ドトールに居なければ良いのでは?
そもそもドトールを待ち合わせ場所に指定したのは君だよね、と。
女は溜め息を付く。
頬杖を付き、物憂げに窓の外を見遣る。
そしてまた語り始める。
「分かってないわね。
生そのもの、それこそが人にとっての地獄なのよ。」
意外な言葉に虚を突かれた思いを抱いた俺は、思わず疑問を口に出す。
え、何かあったの?と。
女はまたも溜め息を付き、そして呆れたような口調で語り始める。
「下らないこと言わないで。あなたって今この瞬間に産まれた人?
人は記憶を持っている限り、それに含まれる毒からは逃れられないのよ。
あの時こうすれば良かった、この時に発した言葉は他人からどう思われたか、
自分のこんなところが嫌い、あんなとこが嫌だ。
人間ってね、幸せな記憶より、嫌な記憶のほうをよく覚えてるのよ。
それらは記憶の狭間に常に潜んでいて、記憶のページを捲る時、
不意打ちのようにその指先を刺してくるのよ。
むしろ、皮膚の下に、自分の内側へとその先を向けている小さな針が無数に埋まっていて、
何か思うたび、何か行動するたびに自分に痛みを与える、そんな感じなのよ。
記憶は人それぞれだし、その記憶がもたらす痛みも毒も人それぞれよ。
人はみな、それぞれにカスタマイズされた、
オートクチュールな地獄の中で生きているのよ。」
「だから、全ては地獄。」
そう一気に語ってから、女は残っていたチーズケーキを平らげる。
そして、スマホをバッグから取り出す。
どことなく寂しげな笑みを浮かべながらSNSに興じ始める。
その果てにも地獄があるのでは?と問おうとしたけれども、それは止めた。
今度はSNSが地獄であるという話に付き合わされるに違いないだろうから。
女はチラリと俺に視線を向けた。
俺は、小さく溜め息を付いた。