大いなる提言がある。

これは去年か一昨年にも同様の
ことを言ったのだけど。

うちの近所に中学校がありまして。

この時季と同じだった、九月の中頃。

だから体育祭の練習なのだろう、
生徒たちが一堂に集められ、先生主導
で叱咤激励の渦中である。

激励はないか。叱咤ばかり。

今年は、つい先ほどだが、

「やる氣あんのか!」
「誰も助けてくれへんで!」

大声で先生、怒鳴る怒鳴る・・。

私なんかでも少しは思いだせるけど、
中学生の頃に体育祭の予行演習で。
授業が全て終わり放課後に運動場に
集められ、演習というか特訓をさせら
れたな。

いやだったなあ。

思うんだよ、

なんで怒るの?

なんで生徒たちが先生に怒られながら
特訓させられるの。

なんで? ねえ、なんでだ?

なんで怒られなければならない???

やる氣あんのか! ・・って、
やる氣なんかないよ。

ないよね。

「さ・せ・ら・れ」てるんだよ。

生徒は体育祭をしたいわけではない。

したいわけではないというか、生徒が
開催したわけではない。

生徒が懇願して開催に至った体育祭で
はない。

そういうものが学校教育の中に組み込ま
れているから。

やったらやったでそれなりに思い出も
できるから。楽しい部分もあるけどさ。

あんなものはさ、もっと楽しくやれる
のではないのか。

お祭り的な要素もあるし、自己表現も
できるし満足感も得られる。

いつしか方向性が変わってね、ガチで
マジで超真剣にやらなければ開催するも
のではないという風潮になっていった。

じゃないと組み体操などケガをする
危険性もあるし。ピラミッドなんてそ
うだよね。

だったら組み体操は辞めたらいいんじゃ
ないの。

ギャラリーが拍手喝采で喜ぶからか、
だったら体育祭って誰のためのものだ。

協同作業の大事さを覚える為か、連帯
責任を知ってもらう為か。そんなものさ
え、怒って怒鳴って伝えるしか術がない
のかよ。

いろいろ言ってみても、一言で集約
できる。「やる氣あんのか!」って、


「やる氣ないよ」、これで終われるよ。


先生、あなたたちが「やりたいから、
やらしてる」のだろう。

学校教育の中に体育祭は欠かせない。
これを通して生徒たちに成長してもら
いたい。って。

その前に先生が成長しなよ。

使い古された手垢の付いた、ベタな
セリフでしか生徒を叱れない。
「やる氣あんのか」とか「誰も助けて
くれへんで」とか。

知性の無さが、怒って声を荒げて言う
ことでしか相手と会話できない。

どうかな、公式な場で、学校もそうだし
職場でもそう。人の上に立つ者として、
率いてやる人たちに対して、感情的に
なってでしか教育・指導はできないのか。

体育祭で特訓させられてる生徒たちは、
もう萎縮してるんだよ。

特訓を、やりたいからやっているのでは
ない。1秒でも早く終わらせて、家に帰り
たい。

やっていくうちに上手になっていくけど。
それはやりたいからやってて上手くなって
いったのではなくて。

“ 先生に怒られたくないから ” 上手く
なっていったのだ。

たとえば、ようやく体育祭が終わって、
生徒たちは涙するシーンもあったりする
けど。

それは緊張感から解放されたからの涙だ。

もうこれで怒られなくていいって。

あるいは苦しい中を潜り抜けてきた戦友
、これは生徒同士のことだけど、戦友同士
をねぎらい合いたい意味での涙。

「終わったね、よかったね」って。

来月もやろうかって言ったら、それは
「かんべんして・・」となる。一年に
一回でじゅうぶん・・。


文化祭も同じでさ。

歌でも歌おうとなり。

練習で協調が乱れて、また先生が登場
して。

「おまえらがヤルって決めたんやろ!」
とくる。

辞退は学校が許してはくれないから、
仕方ないから歌は歌おう、では歌は何
を歌うかを決めただけ。

仕方ないから、この歌にするかって、
そういう意味で「やると決めた」のだ。

やりたくないから、だらだら・・だら
だらしてしまって。

生徒同士で悶着も始まって。

「こんなんじゃ、いつまでたっても
一つの輪にならないよ・・!」とか言う。

社会に出て、そして職場でもそうだが、
1クラス40人として、40人単位で輪に
なることなどあるのか。多すぎだろ。

何をどうやったら40人が一つの輪になれ
る。

歌など歌いたくもない。一人ひとりが
好きな歌を持ってるから。一人ひとりが
歌えばいい。

ビーズの歌が好きだけど、スマップの
歌を、好きでもない、むしろキライなの
に、どうして歌わなければならないか。

国民的歌手だから。『世界に一つだけの
花』だか、名前をよく知らないが。

では、その歌を歌いたくない者は国民で
はないというのか。

オンリーワンが尊いだとか何だとか言っ
ておきながら、その歌を全員で歌いましょ
うって。

一人ひとりの個性を尊重したいのか、
協同作業することを尊重したいのか。


エーケービーのダンスを皆で踊れるよう
にしましょうって、職場で決まって。

それを利用者たちに観てもらいましょう
となり。

30歳もとっくに過ぎたような職員たち
が若い女の子のダンスをせんといかんか。

70~90過ぎた利用者はエーケービー
を知ってるか。

人が踊る時点で、それは観てたら楽しい
かもしれない。

ただ、エーケービーでないといけなかった
かね。

小学校でも、これは友人のママさんから
聴いたのだが、

子どもが学校行事でエーケービーのダンス
をしなければならないが、親も参加しない
といけないらしく、

親と一緒にダンスしないといけない。

親は、仕事が終わって家に着いて家事を
して、それから子どもとダンスの練習を
しないといけない。しばらく毎日。

やりたくない感満載で、やるほどの心身
の体力もなくて。それでもしなければなら
ない。

さらに、練習用の映像が、ない。

おのおのの家族がエーケービーの映像を
調達しなければならない。

調達に要した費用は学校から出るわけ
ではない。当然。

誰のための練習ですかね。

何回、「しなければならない」と言い
ましたか。

やらされているだけだから。

仕方ないからやるだけなので。

だから「しなければならない」。

追い打ちでさらに火をそそがれて、
「やる氣あんのか!」と言われる。

ないってば。


教育・指導とはどうすることかを履き
違えて認識している。