ふと風呂に浸かっていると、「罪悪感とは何だろう?」という問いが浮かんだ。

そこで、以前読んだ二冊を読み返してみようと思った。

 

私の記憶が正しければ、一冊は罪悪感に押し潰されそうになる男の話。もう一冊は、暑かったからという理由で人を殺した男の話だ。

夏目漱石の『こころ』と、カミュの『異邦人』である。

 

もちろん、これは昔読んだときの雑な印象に過ぎない。

だからこそ今の自分が読み返したら、何が見えるのか楽しみでもある。

 

 

『罪』と『悪』

 

 

まず、「罪」と「悪」は別のものではないだろうか。

罪は法律や社会が定めるものである。一方、悪は個人の価値観によって決まる。家庭環境や文化、信念の影響を受けながら、「これはしてはいけない」と自分が確信しているものだ。

何を罪とし、何を悪とするかは国によっても人によっても異なる。結局のところ、悪を決めるのは自分自身である。

 

そう考えると、私たちが感じているものは本来「悪感」だけで済むはずなのに、なぜそこへ「罪」という言葉を付け足すのだろう?

悪の境界線は、その人の確信によって形作られる。強い信念であればあるほど、「それだけはしてはいけない」という歯止めになる。

さらに、そこへ法律や社会からの制裁という「罪」の側面が加わることで、その歯止めはより強固なものになる。

 

だから、人は本当に罪悪だと思っていることを、そう簡単には行わない。

もちろん例外はある。命の危険にさらされたときや、他に選択肢がない状況では、自らの信念に反する行為をせざるを得ないこともある。

 

しかし、そうした特殊な事情を除けば、自分の定めた一線を越えるとき、その瞬間には何らかの形で「やってもよい」と判断しているはずだ。

その意味で、私たちが日常的に「罪悪感」と呼んでいるものの正体とは何なのだろうか?

 

 

『罪悪感』とは

 

 

自己嫌悪や後悔、怒り、失望といった感情を、「罪悪感」という便利な言葉でまとめて呼んでいるだけなのではないか。

 

たとえば『こころ』の先生である。

彼は友人を裏切った自分を許せず、生涯その出来事を背負い続けた。だが、友人を裏切るという行為を選んだ瞬間には、それを実行するだけの理由や正当化があったはずだ。

 

もしそうだとすれば、彼を苦しめていたものは「罪悪感」そのものではなく、取り返しのつかない結果を招いてしまった自分への自己嫌悪や後悔だったとも考えられる。

 

そして、興味深いのは、『こころ』を読んだ当時の僕が、先生の抱えていた感情を「罪悪感」という言葉で理解した気になっていたことである。

先生が語っているのは、自らの行為によって生じた傷と、その後も消えることのない苦しみだ。

 

それにもかかわらず、過去の僕は、その複雑な感情の束を「罪悪感」と名付けてしまっていた。

 

 

私たちは日常の中でも、「罪悪感」という言葉を驚くほど気軽に使っている。

 

たとえば夜中にラーメンを食べるときだ。

「罪悪感、すごいね」と言いながら箸を伸ばすことがある。

 

だが、そのとき発火している感情は本当に罪悪感でいいのだろうか?

 

——おそらく違う。

 

そこにあるのは、太るかもしれないという不安や、健康に気を遣うべきだという意識、自制できなかった自分へのわずかな後ろめたさだ。

そして私たちは、それらをひとまとめにして「罪悪感」と呼んでいるのかもしれない。

 

むしろ私たちは、自分の感情を正確に見つめる代わりに、「罪悪感」という便利で、どこか贖罪の物語をまとわせてくれる言葉を被せているのではないだろうか。

 

本当は後悔や自己嫌悪、不安と呼ぶべきものを、「罪悪感」という言葉で飾り立てることで、どこか納得した気になっているのである。

 

 

それでも僕は、罪悪感を手放さない

 

 

 

ここまで、つらつらと罪悪感について語ってきたが……

 

——それでも別に、罪悪感を抱き続けたっていいじゃないか。

 

 

僕自身、これからも罪悪感という言葉を使うだろうし、口にもするだろう。

ただ、その言葉の奥に別の感情が隠れているかもしれないと知っていれば、それで十分だと思う。

言葉に振り回されるのではなく、その言葉を選んで使っているということだからだ。

 

だから僕は、これからも罪悪感という言葉を使う。

 

その言葉を使っている自分を笑ったり、許したりしてやりたい。

 

感情とは、出来事に意味を与えるために生まれた物語のようなものだ。

だとしたら、これくらい曖昧でもいいじゃないか。

 

 

カミュの『異邦人』

 

罪悪感について考えるために読み返したはずなのに、『異邦人』から受け取ったものは別のところにあった。

むしろ私の目に映ったのは、「祝福」という言葉だった。

 

次回は、カミュの『異邦人』を祝福という視点から語ってみたい。

 

『恥ずかしい』と口にするたび、自己評価を下げている

「能力を十分に発揮できなかった」

「満足のいく結果を出せなかった」

「身の丈を越えたことを口にしてしまった」

あるいは、思いがけず「褒められてしまった」とき

 

そんな場面で、反射のように

『恥ずかしい』と口にしてはいないでしょうか。

 

実は私も昨日、

相手からの賛辞をどうしても受け取れず、

気づけば「自分なんかが……恥ずかしいことです」と返していました。

 

あとになって、はっとしました。

あの一言は、二つの意味で自分を落とす行為だったのです。

 

ひとつは、

『恥ずかしい』という言葉そのものが、自らの自己評価を引き下げてしまうこと。

 

もうひとつは、

相手が勇気を出して差し出してくれた言葉を、受け取らなかったことです。

 

たとえば、自分から挨拶をする場面を思い浮かべてみてください。

返事がないかもしれない。無視されるかもしれない。

それでも声をかけるのは、小さくない勇気が要ります。

 

人を称賛することも同じです。

拒まれるかもしれない。それでも相手を認め、言葉にして伝える。

 

その気持ちに対して『恥ずかしい』と返してしまうことは、

差し出された勇気を、押し返してしまう行為なのかもしれません。

 

今回は、この一連の構造をより深く理解していただくために、『恥』という感情を解剖していきます。


 

☑️『恥』とは、きわめて社会的な感情

 

『恥』は、

・自分や*自分の「身内」が、求められている社会的な役割を果たせなかったとき

・他者と比べて劣っていると感じたとき

・何らかの価値観(法律、倫理、常識など)に反したと感じたとき

に生じる。

 

たとえば、

・仕事や勉強において、期待された通りの結果が出せなかったとき

・自分や*家族の収入が、周囲に比べて低いと感じたとき

・だらしない格好でくつろいでいる姿を他人にみられたとき

人は『恥ずかしい』と感じる。

 

大切なことは、

・他者に評価される

・他者に比べられる

・他者に見られる

といったことがなければ、『恥ずかしい』という感情は起こりえません。

 

つまり、『恥』とは

「自分という存在や自分の言動が他人から見られ、評価される」という前提があって初めて生じる、きわめて社会的な感情なのです。


 

☑️『恥ずかしい』という思いが、自己評価を下げる理由

 

「能力を十分に発揮できなかった」

「満足のいく結果を出せなかった」

「身の丈を越えたことを口にしてしまった」

あるいは、思いがけず「褒められてしまった」とき

 

これらを認識したり、自分の力の程度を把握したりするのは、決して悪いことではありません。

それが「もっと自分を高めよう」という前向きな気持ちにつながることだってできます。

 

ただ、そのようなとき『恥ずかしい』とは思わないでください。

満足がいく結果を出せなかったと自分や、力が及ばなかった自分が『恥ずかしい』と考えると、

 

**脳は自分自身を『恥ずかしい存在』『力のない劣った人間』と、低く評価してしまうからです**

 

そして、自己評価が下がると、人は無意識のうちに、

「満足のいく結果が出せない状態」や「力が及ばない状態」こそが自分に相応しいホーム(居心地のいい場所)であると感じるようになってしまいます。

 

私自身も、学生時代

「自分は不器用なんです」と口にしていました。

 

その言葉を繰り返すうちに、

「自分が不器用でいる状態」が当たり前になっていったのです。

 

美術の筆記では一定の得点を収めていましたが、評価としては大きくは伸びず、通知表はせいぜい三、良くて四に留まっていました。知識としては十分に理解しているはずなのに、それを作品として形にしたときの評価だけが、なぜか思うように伸びませんでした。

 

当時の私は、それを悔しがることもなく、よく笑いの種にしていました。

「自分がどれほど不器用か」を、友人に面白おかしく語っていたほどです。

 

今振り返ると、「自分が不器用でいる状態」はとても居心地のいいホームであったのだと思います。

 

その立場にいれば、誰かがこう言ってくれたからです。

 

「ハル(作者)は不器用だから、俺が代わりにやってやるよ」

 

“できない自分”でいる限り、

挑戦しなくていい。

責任を負わなくていい。

 

それは確かに、安全なホームでした。

 

『恥ずかしい』という言葉も、同じです。

 

それを受け取る資格がないと拒めば、

挑戦しなくていい。

責任を負わなくていい。

 

「能力を十分に発揮できない自分」

「満足のいく結果を出せない自分」

「身の丈を越えたことを口にしてしまった自分」

「褒められても、それは本当の自分ではないと思ってしまう」

 

『恥ずかしい』という言葉の奥では、

このような自己評価を、私たちは無意識に受け入れてしまっているのです。


 

★それでも、欠点は直さなくてもいい。大切なのは、現状の外にゴールを設定すること。

 

ここまで読んで、

「『恥ずかしい』自分を治さなければいけない」

そう決意した方がいたなら、少しだけ待ってください。

 

なぜ、多くの人がダイエットや筋トレに挫折してしまうのでしょうか?

 

唐突に思えるかもしれません。

ですがこれは、「欠点を直そうとすること」がうまくいかない理由と深く関係しています。

 

最初は続くのに、一ヶ月も経たないうちにやめてしまう。

それは“現状をどうにか変えよう”と必死になっているからです。

 

一方で、現状の外側にゴールを設定したとき、気がつけば行動は変わっています。

 

ダイエットや筋トレは「努力」ではなく、

理想の自分にとって自然な習慣になるのです。

 

少し怪しく聞こえるかもしれませんね。

けれど、冷静に考えてみてください。

 

高いゴールを掲げたとき、

その理想の自分の身体や生活は、どのようになっているでしょうか?

 

以前お話しした「片付けられない子ども部屋」の例があります。

 

部屋を片付けなかった少年が、彼女を家に招くことになったときのことです。

「自分なら彼女と楽しい時間を過ごせる」と確信したその瞬間、

彼の中ではすでに、“きれいな部屋で彼女と笑い合っている”未来の映像が、強いリアリティーを帯びていました。

 

彼女と楽しい時間を過ごす未来を鮮明に描いたとき、

部屋を整えることは「努力」ではなく、当然の行動になります。

気がつけば、部屋は整っているのです。

 

現実は、あとから追いついただけのことです。

 

もしあなたが、

「家庭にも外食にも広がる、国民食になる料理を生み出す」と掲げたなら。

それは明らかに現状の外側です。

 

そのとき、インタビューに答えている自分を想像してみてください。

そこに立つあなたは、どんな表情をし、どんな言葉を話しているでしょうか。

 

そこには “have to”──

「しなければならない」という義務は生まれません。

 

気がつけば動いている。

 

部屋を片付けた少年のように、

理想の自分の姿へと、無意識が勝手に近づいていってくれるのです。

 

ゴール設定について詳しく知りたい方は、

「現状に対する『不満』は、生き方を変えるきっかけになる」の章をご覧ください。

最後の☑️

「自分の現状に対する『不満』は、“現状の外”にゴールを設定し、行動を変えるチャンスになる」

の項目で詳しく触れています。



 

☑️『恥』という感情をコントロールする方法

 

そうは言っても、すぐに現状の外側にゴールを見つけるのは簡単ではありません。

 

もし何かに失敗したり、満足のいく結果が出せなかったときには、

『恥ずかしい』ではなく、「自分らしくない」と考えてみてください。

 

少なくとも、現状の外側にいる自分であれば、

同じ出来事が起きたとしても、『恥ずかしい』という言葉は出てこないのではないでしょうか。

 

「自分らしくない」という言葉には、内省を促す力があります。

そう唱えてみると、自然と「では次はどうするか」と前向きに考えられるようになります。

 

無意識のうちに、自分の価値を高める行動への抵抗は薄れ、能力をより自然に発揮できるようになっていくはずです。


 

☑️他人の言動への『恥』は、本来の『恥』ではない

 

自分自身に対してではなく、

他人の言動や結果に対して『恥ずかしい』という評価を下す人は少なくありません。

 

たとえば、

身内が自分の望まない相手と結婚しようとしたときに、

「家の恥だ」「顔向けできない」と強く非難する場面。

 

このときに使われている『恥』という言葉は、

本来の「自分という存在や自分の言動が他人から見られ、評価される」としての『恥ずかしい』とは少し性質が異なります。

 

それは、自分の価値観に合わないものを排除するための言葉であり、攻撃や統制の手段として用いられているに過ぎません。

 

突き詰めれば、

その人にとってのホーム(居心地のよい秩序や立場)が揺らぐことへの恐れなのです。


 

☑️終わりに

 

今回は物書きとしての視点というよりも、

日頃感じた感情をフィードバックする場として書かせていただきました。

 

自分自身、まだまだ感情を扱いきれていないなと思う反面、そういう自分も含めて面白いなと思っています(笑)

 

ぜひ皆さんも、感情を一つの娯楽として捉え、

自分が感じたその揺らぎを小説に活かしてみてください。

 

皆さんと併走しながら、物書きとしてともにブラッシュアップしていけたら嬉しく思います。


 

今回は以上になります。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 

「感情」の解剖図鑑 苫米地英人

※本文を考える際に参照したものです。興味のある方は、ぜひあわせてご覧ください。

 

 縄文土器とやりたいこと

 

 

 

 

岡本太郎の書籍を読んだことをきっかけに縄文土器に興味を持ち、博物館へ足を運んだ。

実物をこの目で見たその興奮が冷めないまま、帰りにそのまま図書館へ立ち寄り、縄文土器が掲載された本を数冊借りて読んだ。

博物館には、縄文中期の火焔型土器↓のような、口縁部に炎が燃え上がるような立体装飾を持つものは展示されていなかったが、

 

火焔型土器

 

 

それでも縄文初期の深鉢を見ることができた。

縄文土器特有の文様には、火の通りをよくするための実用的な役割もあったといわれるが、それ以上に、呪術的な厳かさというよりも、もっと生々しく、おどろおどろしい何かを肌で感じさせた。

 

隆起した文様の多くは左右対称ではなく、破綻を恐れないまま、ぐるんぐるんと螺旋を描いてうねり、掴みどころがない。しかしそれが『整っていないこと』など、どうでもよくなる。ただ先入観を手放して見つめていると、腹の底が熱くなってくるのだ。

 

縄文土器を見ていると、純黒の中に一滴の鮮血が混じり合ったような、強烈なうねりを感じる。 

ハラワタがぐわんぐわんとうねりをあげて、自分の生命時間を太陽のように無償かつ無条件に消費し続ける何かを、無意識が探し求めている。

 

 

現代を生きる日本で生活する私たちはは物に溢れ、生きる上では何不住なく生活することができている。大変ありがたいことだが。

 

それでもなぜか、空しくなるときがある。

 

自分の本当にやりたいことを諦めて、社会が世界が素晴らしいといったことをやっていても、その虚ろは何色にも満たすことができない。

 

とりとめもなくただ熱量のまま書いてしまったが、縄文土器を見て感じたことは、これがすべてだ。

 

最後に、岡本太郎の言葉を借りて締めたい。

 

無邪気な驚きと、喜びに我を忘れさせる。

カラッポにすると、次の瞬間、真空状態の容器を開けたとたん爆発的にまわりの空気が押し入ってくるように、猛烈な新しい知的エネルギーが湧き上がる。