再発がわかっていちにちでも長く生きるためにはエンドレス抗がん剤が必要と言われたときはゆうつになり、本当にがっかりしていたし鬱っぽくなっていた。
疼痛治療ためにトラマールを飲んだら
副作用でめまいがひどくて何もできなくなったし
食事も取れなくなった。
その時のことをひどい目にあったと言っていたし
私自身肯定してきたけれど
あれはトラマールの副作用というより、鬱だったんだと思う。
なにせ、私は疼痛治療でトラマールを飲んだことがあるんだけれど
普通だったから車の運転もしていたし、仕事にも行っていた。
もしかして私が強者なだけかもしれないけれど
あんな風な副作用が出ることは非常に稀であり得ないと思ってしまう。
(きっと医師もそう思っていたに違いない)
だからこそ、医者の対応がヤブ医者に見えるわけで
多分、というか鬱だったんだ。
それくらいがっかりして鬱になるほど嫌だった抗がん剤治療も
できなくなると分かればすがりたくなるもの。
自分の命を長くしてくれるものはもはや抗がん剤しかない!
それくらいの気迫!
父も妹も、リハビリ転院して、歩けるようになったら抗がん剤をと随分長いこと行っていた(2ヶ月くらい)
実際は、もう9月の第1週目あたりには
歩けるようにはならないから、抗がん剤はできない
緩和ケアをしっかり行って、寿命を長くしましょうよという話になっても
付いてこれなかった同居人たち・・・
本当に苦しかったなぁ。
二年前再発の時に言われた(抗がん剤をして最長2年)を忘れているのだから
話が通じないしね。。。
母には抗がん剤をして最長二年と言われても、その間に新しくできる治療が出るかもしれないし、5年前には臨床で認可されていなかった抗がん剤(分子標的薬セキツシマブ)を使えるようになったから今こうして出かけたりできるんだしね!と励まし続けていたけれど。
支えていく人まで同じようにぼんやりと夢の中にいたんでは・・・
リードできないよ。
今から死ぬ人を支えていく、できる限り安らかな毎日に導くって本当に大変だった。
G研病院のケースワーカーの「人は誰でも弱いです。弱いから抗がん剤をやめると決めるのは本当に難しい。できるならできる道をずっと探し続けたい。そういうものです。」って言葉、ずっと響いていた。
すがりたい、生き延びれる道にすがりたいんだよ。
すっごくわかる。
でも、母は自分を強く見せる人、私以外に弱音とかいうのかって思うくらい
みんな知らない。みんな知らないまま母は死んだ。
みんなに知らせたくなかったから、それでいいんだと思うけれど。
12月に病院から家に帰ってきたときも、相当不安で鬱っぽかった。
同居人が支えてくれたのなら、って心から思っていた私のことはみなさんご存知ないし。
何よりは、私がうるさく死ぬ時間がない、そばにいてあげて私はもう叶えてあげられない(子供が立て続けにノロ)と訴えて、父の姉様に電話してお願いして話してもらってから、やっと毎日病院に行くようになったのに
病院から家に帰ってきてからは母を部屋に閉じ込めていた。
(彼らは引越しをしたかったんだよね。母の願いを叶えるために、マンションに引っ越ししたかった)
でも、引っ越している時間はなかった。
引越しに使う時間を全て母に使って欲しかった。
でも通じなかったね。
母が喋れなくなってから妹が泣きながら
「お姉ちゃんのせいだ。お姉ちゃんが引越しが必要と言った。部屋に閉じ込められている感じがするといった」
そう言ってきたんだけれど、引越しはG研のケースワーカーが言ったこと
その次の週には”引っ越してる場合じゃない、悪けれはあと2ヶ月”って話が持ち上がって
部屋に閉じ込められている気がするから嫌だなと言ったのは母。
自分たちが表舞台に出てこないから
病院との面談や医師との診察にいくら声をかけても一切出てこなかったから
何も知らないし、遅れていたんだよ。
私のせいにしないでください。
というわけで、家族に絶対王者がいない場合
話はできるだけ家族全員で聞いたほうがいいです。
死ぬのがわかっていて、それぞれに思いがちぐはぐな方向を向いている場合
パフォーマンスが悪いです。
低パフォーマンスしてる場合じゃないです、がんの終末期は後悔を残さないように一丸となって過ごしたほうがいい生き方ができると思います。
うちはあれほど医師に言われたのにバラバラだったから
本当にもったいなかったなぁと思いながら
愚痴が多めの投稿になりました。