私が生まれ育ったのは神奈川県の横浜市です。

 

今でさえ大宮や柏など、首都圏の他の衛星都市と変わらない住宅地になってしまいましたが、当時の横浜は他の地方にお住まいの方には想像出来ないような独特の街であったと思います。


 私が生まれたのは昭和33年、その3年前までは、伊勢佐木町や関内、山下町など市内中心部は全て進駐軍に占領され、住民は強制移住させられ、アメリカ軍人のカマボコ兵舎が立ち並び、オートジャイロの滑走路まであったほGHQの接収地でした。
 その為、デパートや映画館、飲食店街などは弘明寺に移され、当時の弘明寺には映画館が四店舗あり、スナック、居酒屋、呑み屋、あんまなどで賑わっていました。
 市内中心部の接収は昭和30年以降には解除されたのですが、その後も市内各所には軍の施設が残りました。

 私の家の近くの横浜国大の施設内にも米軍のカマボコ兵舎はあり、少し行った宿町にも通信施設が残りました。本牧や小港、平楽の丘の上には米軍将校用の一戸建て住宅が並び、アメリカンスクールやPXという米軍人ようスーパーマーケットもあって、さながらアメリカの一部のようでした。

 柳ジョージの「フェンスの向こうのアメリカ」という歌に描かれた世界が拡がっていたのです。

 

 アメリカは市民の生活の中にも入り込み、市内一等地の山下公園の前にはアメリカ領事館がホワイトハウスのような佇み、5月3日に行われた港まつり国際仮装行列の先頭は必ずアメリカ海軍軍楽隊でしたし、7月6日のアメリカ独立記念日には花火が、上がりました。
 そうそう、現在横浜スタジアムがある横浜公園の一角にもアメリカ人専用の教会があり、このブログの第二章でも出てきます。

 この時代を古き良き時代称する方は多いようです。この時代を描いた『ALWAYS三丁目の夕陽』にも他人の事情も考えずに自己主張する人や、詐欺を働く悪人も出てきます。令和の現在では日本を初めて訪れた外国人観光客がゴミが落ちていない道路やクラクションの鳴らない町、駅のホームの整列乗車に驚き、他をリスペクトする日本社会を絶賛しますが、それは長年の社会の熟成によって得られたもので、昭和のこの時期、あるいはそれ以前は、もっと自分勝手な人が多く、めちゃくちゃな社会だったと思います。現在に比べて決して「良き時代」とは思えません。そんな無秩序で声と力が大きい人間が幅を利かすような時代でしたし、戦後を引きずってもいました。夏祭りや酉の市などでは屋台が並び、子供心にもウキウキしましたが、

その屋台の間に必ず、昔の軍隊の略帽を被った傷痍軍人が、四つん這いになって、物乞いをしているのです。隣りに同じ恰好をした人がアコーディオンで『ここはお国の何百里~♪』を弾いています。
「ね、おにいちゃん、見た?あの人右手がなかったよ。」
「しっ!!、見るなよ。」
私達は見てはいけない物を見たような気持ちで、一生懸命忘れようとしたのでした。


 私の家には、私が物心ついたころからテレビと電話がありました。何時からあったかはわかりませんが、かなり高価なものだったことはわかります。それでも母が私を連れて家を出て、安アパートで暮らしたときには既に小さなテレビがあったので、小学校低学年の頃には普通の家庭にも普及していたことと思います。それでもカラーテレビの出現には感動した覚えがあります。

 本編でも少し書いていますが、「ウルトラQ」は元々モノクロ作品ですが、「ウルトラマン」の銀に赤いストライブの姿や、オレンジ色の科特隊のユニフォームは色付きで覚えています。私ぼ家では夜の両親が仕事を終え、入浴後の9時から家族みんなで炬燵に座り、テレビドラマやテレビ映画劇場を観ることが多かったです。「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」、「白いい巨頭」や「白い滑走路」、映画劇場では「大脱走」や「クレオパトラ」など、時に子供の目には毒になりそうな内容でも、親と一緒なら観せてもらいました。
 あの件の後、両親はとても仲がよく、兄弟喧嘩もしたことがありません。私と一番上の兄とは7歳の違いがあったので、私が小学校1年の時に、兄は中学2年で、私が5年生の時は既に深夜放送を聞き、予備校に通う受験生として学生運動にも感心があるようでした。その頃になっても、兄は私の面倒をよく見てくれて、寒い冬には兄の布団の中で、兄に抱かれながら眠ることもありました。

 そんな昭和44年の4月、5年生になった私は、クラス替えが行われ、新しい級友たちと新しい担任の先生に会うことになりました。
 新しい担任はN先生と言う27歳の男性の先生で、飄々とした風貌でメガネを掛けたスポーツマンタイプの先生でした。

 当時「青春とはなんだ」とか「これが青春だ」「でっかい青春」などの若い男性教師が、不良生徒達(主にラグビー部)を引っ張って行く、いわゆる青春ドラマが流行っていて、その影響もあったのでしょう。私たち生徒は初日から、このN先生のことが大好きになりました。まだ27歳の男性教師は小学生にとっては歳の離れた兄貴みたいな存在で、それまでの上から目線の教師達とは比べ物にならないほどの親近感があったのです。

 実際、そうした私達の期待どおりに、土曜日の午後からクラスのみんなと一緒にソフトボールをやってくれたり、自習時間には校舎の屋上でドッジボールをしたり、日曜日には女子たちが中心となり、大船にある先生の家まで遊びに行くこともありました。
 夏休みに先生が当直で学校に泊る時は、(昔はそんな事があったんですね。)みんなで学校に集まって、夜の校内を廻って肝試しをしたり、翌朝は早朝野球をしたり、そのままフルチンで学校のプールに飛び込んだり、それはそれは楽しく遊ばせてもらいました。そうした遊びを通して、先生といっぱい話す事ができ、大人の社会の色んな事を学ぶことが出来たのです。私も、もう一人の兄貴が出来たようで、この先生に夢中になりました。

 そして、クラスの中に私を好いてくれる女子も出来ました。変える方向が同じだった彼女は、私が智たちと離れるのを待っていてくれて必ず一緒に帰りました。この年代、女子なんか、すぐに泣くし、先生に言いつけるし面倒くさい存在でしかありませんでしたが、母同士が仲が良く、一度、彼女のバレーの発表会について行った時に、舞台から降りてきた彼女は、紅の口紅と太いアイライン、真っ青なアイシャドウをたっぷり塗って、別人のような顔で、私は呼吸をするのも忘れるぐらい驚き、胸が高鳴り、恋に落ちた・・・・様な気がしたものです。



 あの時代、私達に人気があったテレビドラマが「謎の円盤UFO」という空想科学ドラマでした。
 ウルトラマンのような怪獣モノは、子供っぽいと、生意気に思ってきた世代です。当時から10年後の1980年に地球に謎の円盤が襲来し、その円盤と宇宙人を秘密地球防衛組織SHADOWが防衛するというイギリスのドラマでした。
 SHADOWの本部はロンドン郊外の映画会社の地下深くにあり。スカイダイバーという潜水艦が海底を潜り、月にはムーンベース防衛基地がありました。
 このムーンベースを指揮するエリス中尉が童顔の美人で、身体のラインがくっきりと出る、全身シルバーのユニフォームに紫色のボブヘアー、パッチリとしたアイメークに、これでもかというほどアイシャドウを塗りたくった厚化粧で、エリス中尉が画面に出ただけで、テレビの前の男子は性的興奮が極致に達したものです。その他ストレイカー司令官やフォスター大佐はネクタイをしないスマートな服装で、女性のレイク大佐も、いつもスーツ姿でしたが、ブラウスのボタンを胸元まで開けて、おっぱいの割れ目が見える服装、スカイダイバーの女性乗組員ニーナ中尉は、おわん型のおっぱいが付きだした裸体に、メッシュというか、網だけの制服で、乳首が見えるのではないかと目を凝らしてみたものです。


 それはともかく、小学5年になって、新しい級友達も、くだらないこだわりを一切持たない明るく楽しい仲間たちばかりで、男女問わずオープンな話が出来るクラスメイトでした。そんな中、私は得意だった泳ぎを生かして水泳部員として横浜市の大会に出て、結果は散々でしたが、水泳部の仲間たちと明るく楽しい夏を過ごすことが出来ました。もちろん彼女もいましたし、毎朝、学校に行くのが楽しみな毎日を送ることが出来ました。


 そんな明るい生活に慣れてきた9月のある日、学校から家に帰ると、

私の家の前でノリちゃんが待っていました。