そんな感じで、何故か豊かになった我が家では庭を潰してお風呂が出来ました。

二畳分の広さに木製の風呂桶とガス釜が付いた小さなものでしたが、母と一緒に銭湯の女湯に入るのが恥ずかしくなってきた年代でしたので、ここは単純に嬉しく、私は一番上の兄とよく一緒に入っていました。

二番目の兄がボーイスカウトの年少隊の、カブスカウトに入ることになりました。
私も3年生なってから入ることになりましたが、カブスカウトというのは、小学6年生から入るボーイスカウトの下部組織で、小学校3年4年5年生が入ります。


カブスカウトの活動は毎週日曜日で、歌を歌ったりレクリエーションをしたり、行進や集合の訓練みたいなこともやりました。

夏にはキャンプがあり、よくロープワークや飯盒炊飯が学べると言いますが、殆どは集まって歌を歌ったり、ゲームをしたりハイキングに行ったり、子供会と変わらない物でした。
ただ商店街がある下町では、両親とも働いている家庭が多く、日曜日に子供を遊ばせてくれるので重宝していたようです。
でも、僕は少年野球がやりたかったなぁ、兄がカブスカウトに入ったので入りましたが。

 カブスカウトは6年生になるとボーイスカウトになり、高校生になるとシニアスカウト、その上がローバスカウトとなって行き、シニアスカウトのお兄さんたちは、デンチーフという名前でカブスカウトたちの面倒を見てくれます。
その他にカブスカウトの小学生たちの面倒を見てくれるのはスカウトの父兄、特にお母さんがみんなの面倒を見てくれるデンマザーというものがあり、このデンマザーや隊長、副長はちゃんとに指導者講習みたいのを受けるそうです。
私が入隊したころには父の店も他の従業員を雇ったことで母も手が空き、母がこの講習を受けてデンマザーとなって、私のスカウト活動に同行することになっていました。

 上下カーキ色のボーイスカウトと違って、カブスカウトの制服は紺色のシャツに三角巾を折ったネッカチーフと、半ズボンに長ソックスです。
冬でも半ズボンで、電車やバスの中等で恥ずかしさもありましたが、当時は子供心に「自分は特別」という心が働き誇らしくもありました。
ちなみに隊長や副長、デンチーフのお兄さんはボーイスカウトのカーキ色の制服で長ズボンを履いていたし、デンマザーは私達と同じ紺色の制服にスカートでした。
いつもはオバサンの格好をしている母が、余所行きの薄化粧をして、自分たちと同じ紺色の制服とスカートからストッキングの脚を出した姿はなんとも艶かしく、見てはいけないものを見たような感じでした。


 小学4年生の冬のある日、カブスカウトの行事で本牧にある三渓園という庭園にスケッチに行ったことがありました。
この時、我が家では全員風邪だかインフルエンザだかにかかっていて、二人の兄も父も布団の中で休んでいたので、唯一かかってなかった私と母だけが、家族との接触を控えるためにもカブスカウトの活動に出て行ったのです。

ただ、やはり私も感染していたようで、寒い中、三渓園の園内を歩いて、お弁当の時間になった時には寒くて寒くて震えてしまい、それは同行していたデンマザーでもある母にもわかったようで、家にすぐ帰ることになりました。
ただし母は他のスカウトたちの面倒をみなくてはいけないので、泣く泣く私一人をバスに乗せて帰らせることになったのです。
三渓園から自宅がある街までは市営バス一本で行けます。母はバス停まで送ってくれて、「帰ったらお父さんに言って、すぐに寝るのよ」と言って、私と一緒に路線バスに乗って車掌さんから切符を買い、「○○で降りますからお願いします」と言って降りて行きました。

私はアパートでの二人暮らし以来、母にだけは心配かけまいとして、母の前では弱音を吐かず強がることが習慣になっていたので、母にはへっちゃらな顔をしていましたが、一人になると寒くて寒くてぶるぶると震えてきてしまいました。

一番後ろの窓側の席に座ると、ぼーっと外の景色を眺めていました。当時の橫浜は進駐軍の接収地が各所にあって、本牧の米軍住宅やPX、小港の将校クラブなどの英語の看板を見ながら意識が遠のいて行くのが分かるくらいでした。
バスが尾上町の交差点を曲がると、曙町のバス停から隣に40才ぐらいの恰幅のいいオジサンが座りました。
「おぉ、ボウズ、寒いのに半ズボンか、元気だなぁ!」
そのオジサンは優しく話し掛けてきましたが、僕はそれに応える元気はありませんでした。
寒くて歯をガタガタと鳴らす音が聞こえるほどでしたが、それより熱で頭がぼーっとして、身体全体がだるかったのです。

しばらくすると、隣のオジサンが僕の顔を覗き込み、
「坊や、熱があるのか?」と聞きました。
僕は無言で頷くだけでしたが、
「半ズボンで冷えちゃったんだろ、オジサンが暖めてやる」
と言って僕の腿に手を当てました。

 冷え切っていた脚にオジサンの手の体温が伝わってきます。
現在なら風邪を引いて熱がある子供に、近寄ろうとする大人はいないと思いますが、当時は風邪の感染について今ほど気にしていなかったのだと思います。

 オジサンは僕の腿の上にじっと手を置くだけでなく、腿の上や裏側、膝の上など、色んな場所に手を置いて体温で暖めてくれました。
 僕は家族でもない他人に、そこまでしてもらって、申し訳ないと思ったのですが、それよりも熱で頭がふらふらで、息も荒くなり座っているのもやっとで、身体をオジサンの身体にもたれている状態でした。


 10分ぐらいその状態が続いたでしょうか、僕の膝に置いたオジサンの手が徐々に僕の股の方に上がってきたかと思うと、半ズボンの裾の部分から親指を中に入れてきて僕のチ●コに触れました。

「あっ、オジサン」

僕は絶え絶えの息でそう言ったのですが、拒絶することは出来ませんでした。
「チ●コも温めなきゃな」

オジサンはそう言うと、大きな手を無理矢理半ズボンの裾から突っ込んで僕のチ●コの全体を握りました。

「かわいいチ●コだな、」

そう言うと人差し指と親指で輪っかを作ると、僕のチンコを握り、動かしはじめたのです。

「あっ、あっ、オジサン、ダメだよ」

僕は動けない身体をオジサンの胸に預けながら、ハァハァと息をしながら、消え入るような声で、
「オジサン、ダメ・・・」「いやっ」などと言ってましたが、
他人にチ●コを触られたのは初めてかもしれません。
オジサンの手は大きく、指はゴツゴツしていて父や母のものとは違います。
そのうちなんかオシッコが出そうな感覚になってきました。年齢的に射精という事はないはずですが、僕のチ●コはムクムクと硬くなり、血が集まってゆく感じがしたのです。

その時、バスの前方に居た車掌さんが後ろにやってきて、
「坊や、こっちにいらっしゃい」と怒ったような声で言うと、
オジサンも手を引っ込めて、フラフラの状態だった私も、ありったけの力で立ち上がり車掌さんに手を引かれ、前方の席に座り直しました。

私が初めて痴漢(らしきもの)に遭ったのはこの時が初めてです。
その時は痴漢という認識がありませんでしたが、一歩間違えばけっこう危なかったかもしれません。

男のくせにおかしいのですが、実は私はその後もよく痴漢に遭っています。美少年でもないし、イケメンにも育たなかったのになぜでしょう?
他人の手で初めての射■を経験するのは、もう少し後になってからでした。