「本人自身にとって苦痛ではなく、常ならぬ事態が起きているという感じを与えるものではない。それゆえ病的であるという自覚がない。むしろ軽躁は、かくあるべしという本人の理想像であり、とりわけうつ状態のような打ちひしがれた、情けない状態であれば、なおさらそのように感じられるだろう。」
内海健『双極性II型障害という病 改訂版うつ病新時代』勉誠出版、2013年、p39
・沼部春友「四国の卜部」『神道宗教』49号、30-44、1967。のち覆刻版『神道宗教6』第一書房、1987年に収録 の要約
  「職員令」では「卜部廿人」。その『義解』によると「卜部長上」2人が置かれた(宝亀6年格参照)。卜術に最も長じる者、という記述から、亀卜の事を掌っていた者だろう。その外、宮主2人(『臨時祭式』)卜部の事に堪えた者から任じる。伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の三国の卜術に優れた者からとる。在京のものを選ぶときは、卜術群を抜くもの以外は充てない。
・平野博之「対馬・壱岐卜部について―その成立期についての二、三の問題点―」『古代文化』17(3)、1966、65-72 の要約

  伴部としての卜部の構造を知る最古の文献は『令集解古記』所引『官員令別記』である。別記の内容は以下の通り
        卜部               同厮  国造直丁  同厮
  津嶋上県国造 1  京卜部  8  3     2        1
  下県国造    1  京卜部  9  3     2        1
  伊岐国造    1  京卜部  7  3     2        1
  伊豆国嶋直   1  卜部    2  3     2        1
            斎宮卜部      4  2
  上記、国造一口とは、国造の一族から1名出すこと。京卜部は国造の支配下にある京在住の卜部のこと、する。対馬卜部には直姓を持つ者と持たない卜部姓の者がいるのはこのことを示す。
  この当時の卜部は力役的性格が大きい。そのため代償として食糧の給付と課役の免除が行われたと考える。
  以上から、この(『浄御原令』の)時点の卜部は「官人」へ移行する指向性を持っていたが、まだ成熟はしていなかった。『大宝令(考課令)』で番上官とされたも、これを支持する。この型の品部としては、兵衛や采女が近く、官人として成立していた画師よりは古い型とみられる。その発生時期は6世紀末から7世紀初頭をくだらないか。