3月15日(金) オフ
2連勤が終了し、ホッとしてオフを過ごしている。
今月から変わった新体制の業務の中では、夕方の帰宅ラッシュの時間帯に増える配達件数が地味に疲労を蓄積させるようだ。
最近は、月を見上げることが多い。
満月より三日月の方が好きかもしれないなどと、センチな事を考えたりもしている。
去年の今頃は、「うどんが美味い」などと暢気なことを日記に書いていた。
現場近くの公園脇で、朝の談笑中に 「たまには女性とご飯でも行きたいよ」 などととおどけて見せたらマツヤマから 「そういうことを、もう考えていないのかと思ってました」 などと割と真顔で言われてしまった。
そんな風に見えていたのかと思うが、人から見た自分はそうなのだろう。
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今日は暖かくなるそうだし、カーテンに当たる陽射しが暖かさとうららかさを感じさせてくれるが、まだ外に出ていないので体感後の実感ではない。
今日は数日前からエンジンオイルの交換をしようと思っていたが、やめた。
母から衝撃の事実を聞かされてしまって、すべての行動が止まっている。
洗濯物を畳むことも、カゴの中の洗い物に手をつけることも、今日やろうと思った全てのことがブレーカーを切ったように止まっている。
日記を書きながら自分を俯瞰しようと思っている。
静かに、余計な事を考えて心を波立たせることのないように、だ。
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数日前にひとつ、歳を取った。
誕生日とは私にとって歳を一つ重ねるだけの日、なのであまり好ましい日ではないが、なまじ過去の記憶があるために人から祝われる日の印象が少しだけ邪魔になっている。
寂しさを感じることなく、よくここまで生きたと自分を褒めてやればいい。
それを祝うための、新しい酒のボトルと肉を調達して帰宅。
肉には少しワイルドさが欲しかったので、クミンというスパイスを下準備に加えた。
素材の味やらダシやら発酵という文化の和食とは反対に、スパイスや濃い目のソースという食材で無理矢理味をねじ伏せるような外国の料理文化は朗らかで豪快、大陸的な【らしさ】があって悪くないと思う。
ハイボールでツマミをつつきながら焼き上がるまでの1時間。
思う存分に肉を食らって、この先も思ったように生きてやろうと一人思った。
約500gの豚ロース肉
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ニンニクとスパイスの効いた500g近い肉を、深夜零時に完食した。
酒も、翌日に仕事を控えている割には長い時間飲んでいた。
翌朝の目覚めで頭痛を感じた。
最初は風邪をひいたのかと思ったが、よく考えたら昨夜の酒食が原因だろうと気付いた。
朝のビタミン剤と一緒に痛み止めをコーヒーで流し込んで仕事に出かけた。
タバコを吸うと必ずしゃっくりが出ていたので、これが治れば復調だと目星をつけた。
それは昼過ぎまで続き、いつのまにか治まった。
久々の二日酔い、ということだ。
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突然にクミンなどというスパイスを使ってみようと思ったのは、仕事中にキッチンカーで売っている弁当
を食べたことによる。
どこか中東を感じさせる肉料理の弁当が新鮮に感じたからだ。
1,000円近いので値は張ったが、味はスパイスのパンチが良く効いて鼻腔も刺激するもの。
普段の私の暮らしには無いもので心躍った。
スパイスの調合でどんな肉をも制御して美味しくするという力強さを感じたし、量も満足のできるものだった。
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車の調子は今一つ。
おそらくはウインカーのリレーが不調なのだ。
配達中に点滅させておくハザードが不規則になっている。
部品は頼んであるのだが、入荷されたという連絡が一向に来ない。
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両親に、処分した車の手続きが完了したのかと電話をした。
姉からも宜しく言われていたし、なにぶん不慣れな事をしている不安感が電話口から感じられていたからだ。
予定通りなら昨日に全てが完了しているはずだったので電話したのだ。
それはどうやら予定通りで、不安なく完了していると思えた。
その確認ができたので安堵。
ずっと車を無くした寂しさのことを訥々と話すので、慰めるしかなかった。
参考にはならないかもしれないがと前置きをしつつ、自分の体験を基に慰めていた。
すると母が突然「お前に話しておかなければいけない事がある。」と言った。
【両親は財産を、数年前に全て姉に生前贈与した】
とのことだった。
数年前。
当時の私は破産手続きが難航していたし、会社の仲間から訴訟を起こされて被告になってもいた。
それを受けて親の自分達にも影響が及ばないための措置だったという母の言葉は理解できた。
なので、その手続きそのものにケチをつけるつもりは毛頭ない。
親に不安を感じさせていた責任がある。
だがそれはすでに終わって、2年が経っている。
そもそも起業から今日にいたるまでの10年以上、親の金をアテにしたことなどなかった。
一度だけ、会社から退く頃に暮らしが成り立たなくなった。
行政からも見放されたその時だけは仕方なく、ホームレス化を避けるために借りた引っ越し費用20万円は始めたばかりの配送の仕事で得た報酬の前借りなどをしつつ、1年後には返済が完了している。
なぜ内緒にし続けなければいけなかったのか。
それも数年もの間。
様々なやりとりを思い出すと、そういうことだったのかと思える発言はいくつかあった。
当時から自分はトカゲのしっぽだった。
本体が脅かされないように切り離す存在だった。
私はそれに気付かなかった。
激しく今さらだが、私は親姉弟にとっての【腫れ物】だったのだ。
たしかに私は離婚することで孫と会う機会を奪ったし、元妻からの両親への金の無心もあったので迷惑をかけた。
恨み言もあるだろう。
一番金に困っていた頃に、元妻から泣きつかれた父から「好き勝手生きやがって!金を家に入れろ!」と怒鳴られたこともある。
しかし、どうしても思ってしまう。
なぜ2年も言わないでいたのか。
言っても仕方ない、と思わせたのか。
訴訟を抱えている頃にも、私は助けてくれなどと言ってはいない。
混乱した暮らしの中で足掻く私には言いにくかったであろうことも想像できる。
ただ、全てが完了したと報告した2年前から今日まで、なぜ内緒にしなければいけなかったのか。
腫れ物の息子が「全ては終わったから」と笑顔で近づいてくるのを無下にできなかっただけということなのか。
ここまで書きながら思い至ったことは、母はこのタイミングで【自分に火の粉が降りかからないと安心した】ということか。
思い出される言葉がある。
母からの 「おまえには何もしてあげられてないね。」
父からの 「体には気を付けろよ。運転にもな。」
姉からの 「これからは何かあったら協力しあおうよ。」
それらがまぼろしというか、空虚なものに感じている。
血縁関係とは、なんなのか。
親子とは、姉弟とはいったい何なのだろう。
母は、なんらかの罪悪感を感じたのか「もう生きていたいと思っていない」と私に言った。
私は、「死にたいと言う人は生きたいと言っているのと変わらないと思ってる」と返した。
本当に死にたい人は、言う前に死んでいる。
そして、「財産どうのとかは気にしなくていいんだ、そんな話がおれだけ内緒だったのが一番キツイ。」とも。
私の状況に対する対策を、3人で話したのであろうことは簡単に想像できる。
今となっては、結果両親にとって保全措置をしただけに過ぎないが、姉にとっては遺産の独占を図って口をつぐんでいたに過ぎない。
その時の感情はどうであれ、長い間内緒にすれば結果そうなる。
数々の連絡は私を心配するものではなく、自分達に火の粉が降りかからないかどうか様子見、確認するものだったのか。
安全地帯から「大丈夫か?」と声をかけていたにすぎないということか。
巻き込みたくはないと思っている私より先に、巻き込まれないように手を打ってあったということか。
母が「縁を切るとかは言わないで欲しい」 と言うので 「そんなことはしない」とすぐに返した。
言ってないが、言われそうな空気でも感じたのだろうか。
良い事もたくさんあって、それは産んでくれたからこそ味わえたのだと感謝している。
だが、今までのように気軽に連絡をすることはないだろう。
努めていつものように 「 体に気を付けて 」 という言葉で電話を切った。
ついでに 「 俺はもう姉とは関わらないってことだけは伝えておいてくれ 」と告げた。
両親との関りで、背後の姉を感じることも私は避けたいと思っているとは言わなかった。
電話を切って最初にやったことは、スマホから姉の電話番号を削除することだった。
これからしようと思っている引越しも、両親の近くにという条件は外すつもりでいる。
贈与が完了しているのなら、実家はすでに無いも同じだ。
姉の庇護のもと、健勝であってくれればもうそれでいい。
どうしようもない喪失感があるが、人のせいではない。
全ては自分のしたことの結果で、これからも事実を受け入れて生きていくしかないのだ。
それだけだ。