ここ最近で、“時間”というものの概念が、
私たちの人生を分割する目盛りで、私たちはその上に乗っているんだ という勘違いから、
それは、生きるということそのもの、命そのもの で、私たちの内側にあるもの
という風に根底から変わってから、日常の過ごし方や、様々なものに対する見方が、すっごく、変わりつつあります。
目に映るすべてが、“いのちのはなし”に見えてくる。
すべて、すべてが、いのちの話。命の物語。
自然界のものも、人工物も。
そんなふうに、世界を眺められるようになりました。
それに伴って、物事を選ぶ価値基準も、徐々に変わりつつあって。
表面的にどうしたらいいか、何が正しいか、ということよりも、それは命を、生命力を増大させるか否か?という問いが、よく自分の中で湧き起こるようになり、その問いは自然と、自分のハートに答えを求めにいきます。
胸に手を当てて考える、ハートの感覚に耳をすます。
そうやって選択する瞬間が、気づけば多くなりました。
命の衝動を、抑え込まないことの大切さ。
一般的に良くないものとされている“欲”でさえ、実は命の衝動なんだと、気づき始めてきて。
すべてを“いのち”を基準として見られるようになったら、目の前の世界が美しすぎて、笑えてくる。
あぁ私はなんて、ひねくれて世界を見ていたんだろうと、世界をわざわざ問題だらけにしていた、そんな自分もなんだか可笑しくなりました。
この愛しい世界を、もっと知りたい。
もっと深く、入り込んでみたい。
そうやって、その細部に目を凝らすほどに、“今”に深く入り込むことを意図するほどに、周りに展開されてゆく世界が、優しいものになってくる。
ひねくれていて、急いでいて、見過ごしてきたもの。
そんなちっぽけな私をよそに、悠然と構えている何かもっと大きな存在に、いつでも包まれていたことに気づく。
すべてが無限にある世界の中から何を拾い集めるのか、それを選んでいるのは、いつも自分自身だということ。世界が私を翻弄しているわけではないのだということ。
心にゆとりができたら、そのことが鮮明に感じられて、狭い認識の中で壮大な勘違いをしていた自分が、またちょっと、なんだか可笑しくなってくる。
すべては、いのちのはなし。
外側のものによって何かを作り込もうとするのではなく、自分の内側から溢れるもので何かを創る。
外側のものに惑わされない。内側からすべてを考える。
忘れていた、命への信頼を取り戻していく。