映画『ダ・ヴィンチ・コード』 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 十数年前に本作は一度観ている。その時はストーリーを上手く追えなかった記憶が残っている。難解でよくわからない。最初に観たときの率直なそれが感想だ。
 それでは観て損しかない駄作と感じたかと言えば、さにあらず。ミステリー仕立てのストーリーの骨格となるキリスト教の成り立ちや中世ヨーロッパの文化、更には謎解きの暗号が隠されている重要なアイテムとして利用されるレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画の紹介に惹かれるものを覚え、その雰囲気は楽しめた記憶が残っている。あくまでも表層的な雰囲気と戯れることしか出来なかったのだろうが、それでも懸命にそのストーリーを追おうとしたのも確かだ。何か惹かれるものを感じたからだろう。
 という次第で地上波で放送されたのを機に録画してもう一度チェック。難解でよくわからなかったせいもあり、改めて観てみれば殆どストーリーを覚えていない。至って新鮮に観返すことが出来た。そして難解でよくわからないストーリーだと予め身構えて今回は接したからか、最初に観たときよりストーリーも割とスムーズに頭に入ってきた。マグダラのマリアとかテンプル騎士団とか聖杯とか、それら如何にもな固有名詞やアイテムに惑わされなければ、単に壮大なスケールのはったり、言葉を変えれば陰謀論をミステリー仕立てのサスペンスに再構築しているだけと知れる。
 それが悪いわけではもちろんない。陰謀論も目つきの据わった馬鹿の妄言として垂れ流されれば鬱陶しいことこの上ない。しかし壮大なスケールでミステリー仕立てに再構築されれば普通にこれ楽しい。娼婦マグダラのマリアとキリストが男女の仲となり、秘かに子供を設けていた。その血は脈々と受け継がれ、実は本作の主人公がずっと行動を共にしていた彼女がその末裔だった。要約すれば他愛なくも実にこれ胡散臭い。あとでインターネットで調べてみれば、公開当時、敬虔なキリスト教の団体から怒られもしっかり発生したそうだ。さもありなん。しかし信仰とは無縁の身が観れば、様々なアイテムを駆使して物語として説得力を持たせているのも確かだ。今回それに気づいたのが嬉しかった。最初に観た十数年前より今の方がキリスト教の成り立ちや中世ヨーロッパ文化への理解が深まり、更には陰謀論へ距離を置く認識も確立できている。それで今回はストーリーがきちんと追えて、基本陰謀論で成り立つ作品と理解できた気がするからだ。
 要はこちらの解像度が高まっているのを如実に覚え、それを嬉しく感じたのだ。
 十数年前はタネも仕掛けもよくわからないマジックに翻弄された。しかし今回はタネを暴くことが出来た。そんな嬉しさを再鑑賞の今回は覚えた。と同時にタネを暴けたことで若干その雰囲気が色褪せた感も今回は覚えたかもしれない。