映画『バッファロー’66』 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 地上波で今年初頭に放映された本作。以前に一度観ている。しかし好印象として記憶に残っていたので録画。改めて今回観直してみた。
 といっても前回観たのが、はや二十数年前。いい塩梅で内容を忘れている。
 主人公ビリーが五年の刑期を終えて出所。その直後、今にも漏れそうなギリギリの膀胱を抱えてトイレを街に探しまわる冒頭部分の件り。これに関しては結構これ切羽詰まった状況が他人事とは思えず。抱いたシンパシーが流石に記憶に残っていた。しかし実際に観直してみれば若干これも記憶と違う。ダンス教室でトイレが借りられたにも関わらず、隣の小便器を利用している男に、「見るんじゃねぇー馬鹿野郎!」と言いがかりつけている最中に、「ほら見ろ!引っ込んじまったじゃねーか!」と実際そこでは小便せず。その後、拉致した本作ヒロインのレイラに彼女の車を運転させて、しばらく走らせた人気のない場所で立ち小便。ここでも又レイラに対して、「見るんじゃない。見るなと言ってるだろ!」と罵りながら、ようやく失禁寸前の尿意から解放されるのだ。この一連の流れを詳細には記憶していなかったので流石に少し驚いた。せっかくトイレが借りられたのに、しかも失禁寸前なのに、隣に人がいてそれが苦になって小便出来なかったの? チンピラ風情がどこまで繊細なんだよ……と。
 最もこの「引っ込んじまったじゃねーか」と理不尽にトイレの先客どやしつけて小突く場面にビリーという男のアンビバレンツな人間性が感じ取れたのは確かだ。すぐに癇癪を起こして相手を口汚なく罵る粗野な男。それは極度に神経質で病的に繊細な人間性の裏返しだったのだ。 
 それ以外に覚えていたのは、やはり終盤のオチ。馬鹿が遂に殺しに手を染めてしまったか……と思わせておいて実は……。この妄想の場面も一度観れば早々忘れられないインパクトは確かにある。
 しかし他に関しては良い塩梅で内容を忘れていたので改めて新鮮に観ることが出来た。
 といっても流石に内容が個性的な本作。観ている最中にあれこれ思い出される展開やシーンは多かった。訪ねたビリーの実家。そこでレイラも交えたビリーの両親とのやり取り。如何にビリーが愛情薄く子供に無関心な両親のもとで育ったか如実に垣間見られる場面。殺伐としているがゆえに妙にシュールなおかしみが醸し出されていてインパクト大だ。更に人に唯一誇れるボーリングの腕前をレイラに披露する、得意げになればなるほど尚更ビリーの人間性のちっちゃさが浮き彫りとなる場面。そして三十歳をとうに超えた今の今まで性体験がなかったのが露わとなる、レイラの求愛に怯えた子犬のようになってしまうモーテルでのビリー。いちいち、そういえばこんな場面あったなぁ……と思い出される。というか、これだけ印象深い場面の数々を忘れてしまっていた自分の記憶力の悪さが俄かに信じ難く感じられたほどだ。
 そして改めて、というか記憶に残っていた以上に主人公ビリーの駄目さ加減、どうしようもなさが際立つ作品と感じた。
 学校が嫌で嫌で登校拒否気味だった少年時代。しかし一人の級友の少女への恋心を頼りに何とか通った。だが少女のことをあまりに露骨かつ引っ切り無しに見つめ続けたせいで、当の本人からは気味悪がられ、「そんなに見たけりゃ写真でも撮ってそれを見ていなさいよ!」と完全に拒絶されてしまう。そのエピソード自体が駄目さ加減マックスだ。まるで『タクシードライバー』のトラヴィスを彷彿とさせる。両親からの極端な無関心という、ある意味これも虐待の一種のような仕打ちも原因で、既に何らかの精神的疾患を負うている印象も受ける。五年の実刑を喰らったその理由もどうしようもない。そして唯一の友人が少し知恵が足りないのも、この手の惨めったらしい駄目男のあるあるとして妙にリアルだ。骨の髄まで劣等感に苛まれたビリーにとって唯一友人として付き合えるのは自分より劣っていると見下せる相手のみ。その友人を絶えず口汚なく罵り侮辱している姿にビリーのキング・オブ・クズが容赦なく詰まっていた。
 順番が逆になってしまった感があるが、改めてストーリーを掻い摘んで説明する。
 アメフト賭博で背負ってしまった借金の肩代わりとして他人の罪を被り五年の刑期を務めたビリー。本作はその釈放後の一日の出来事が描かれている。両親の元に五年ぶりに顔を出さねばならない。しかし両親には刑務所に入っていたことを隠してある。それどころか更に見栄を張って、自分は既に結婚して妻もいると嘘も吐いてしまっている。追い詰められたビリーはトイレを借りたダンス教室でたまたま見かけたレイラを拉致。自分の両親の前で妻を演じるようレイラを脅しつつ懇願。彼女を連れて故郷へ帰るのだ。
 そして偽りと荒みにまみれた実家での両親との交流。その後ボーリング場、更にはレストランでの初恋の少女との屈辱的再会を経て、その後モーテルで育まれるレイラとの情愛。しかしビリーは自分が刑務所に入る原因となったと逆恨みしている男を殺すため、レイラを残して一人モーテルを後にする。
 でも、やっぱり殺人はやめた。
 そして自分を愛していると告げてくれたレイラが待つモーテルに戻り彼女と抱き合って眠る。
 完。
 本作はビリーのその一日がオフビートの独特の脱力感で描かれている。1998年制作作品。この妙に荒んだオフビート感は確かに如何にも九十年代だ。
 更にもう一つ感想を付け足せば、僅か一日で築かれてゆく共依存関係が結構これリアルな作品でもあった。トラヴィス張りの孤独感に苛まれているのが如実に伝わってくるビリー。と同時にレイラの方も又、日常に知らず知らず渇きを覚えていた。誰かに必要とされ愛されることを切実に求めていた。だからこそ絶えずビリーから癇癪を起こされ邪険に扱われても、そこに自分を必要としているビリーの心情を懸命に汲み取ろうとする。ビリーはビリーでレイラをぞんざいに扱いつつ、同時に縋る気持ちも寄せる。まさに共依存の典型的関係だ。
 誘拐したのがレイラであったのは確かにビリーにとっての僥倖だった。本作は一応ハッピーエンドの体裁を取っているのも確か。しかしビリーとレイラの関係性が、今後、本当に二人を幸福に導くかどうかは甚だ疑問とも感じた。
 映画は一応ハッピーエンド。しかしハッピーエンドのその後にもビリーとレイラの人生は続く。その後もビリーは相変わらず存在がクソのままだろう。ほとぼりが冷めれば又繰り返し癇癪を起こしてレイラを心なく傷つけるだろう。それに対して、「彼には私が必要」と益々頑なにビリーに寄り添ってゆくレイラ。この関係性が幸福なのかどうかは実に定め難い。しかし一つの情愛のあり方として否定しきれないのも又事実だ。
 少なくとも追い詰められていたビリーの心が一夜、ほんの束の間なりともレイラの存在に救われた。『タクシードライバー』のトラヴィスは歪んだ正義を実行に移してしまったが、ビリーは一人の女が注いでくれた情愛のおかげで、ギリギリそこを踏みとどまれた。今後どうあれ、その束の間の救済をハッピーエンドとして刻む。これも又、人生の一部分だけを切り取ることができる映画の一つの魅力だろう。
 本作ビリーの心情を何かと『タクシードライバー』トラヴィスの駄目さ加減と重ね合わせて観ていたが、ビリーとレイラの関係には『道』のザンパノとジェルソミーナも重なる。これも又骨の髄までクズで愚か者のザンパノは、かけがえのないジェルソミーナを狂気に落とし込み、そして非道に捨てた。同じく骨の髄までクズで愚か者のビリーだが、せめてビリーにはザンパノと同じ轍を踏んでほしくない。繰り返し癇癪を起こし口汚なく罵りながら、それでもレイラの大切さを完全に見失うことなく、歳月が流れた2024年の今も何とか……と願う。
 最もレイラの方が共依存の関係に気づき、嫌気がさしてビリーの元を去ったとしたら、これに関してはもう致し方がない。その場合ビリーはストーカー行為に走らず潔く諦めていてほしい。ビリーの場合、二人の関係性が破綻に喫した後の粘着質な付き纏いが妙に心配ではある。
 何れにせよ本作は、トラヴィスやザンパノに匹敵する妙に惹かれるクズを造形できた、更には共依存の関係性のリアリティ、この二点だけで十分に秀逸。そこに味わい深い趣向の数々も散りばめられていて、古典的名作として今後評価が揺らぎないものとなる要素は十分詰まっている。忘れ去られることなく、今後いつまでも愛され続けてゆくだろう。