新たな項目『500文字で纏めた夢記録』の始まり。 | 春田蘭丸のブログ

春田蘭丸のブログ

願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 一人の人間が仮に六十年生きるとしよう。そして一日八時間ペース睡眠に充てる。すると生涯の三分の一、つまり二十年分は眠りに費やされることになる。それならば二十年分の夢の世が、覚醒の四十年を凌駕しても一向おかしくない。
 以上それが高校生の頃の胸に刺さった文意だ。
 このアメブロの場でも既に何度か取り上げている。当時定期購読していた、とある音楽雑誌に何気なく書かれていた。原稿用紙恐らく一枚分にも満たない短文だった。
 それが多情多感な当時十五歳の心に見事刺さった。現実に上手く適応できず非活動的。鬱っ気も手伝い若いみそらで何かとすぐ眠くなる己れ。劣等感と自己嫌悪に苛まれていた当時の僕にそれは宿命の如く刺さったのだ。
 人生三分の一の夢の世が残り三分の二の現実を凌駕する……。
 ある種の若さは全力で投げられた変化球に敏感に反応する。誰か確かそんなことを言っていた。夢が現実を凌駕する。当時の僕にとってこのフレーズがまさにそれ。十五歳の僕はその変化球を真正面から受け止めた。お天道様の下で真っ当な幸せを生き生き謳歌出来る連中。そんな連中から遠く離れて、僕には僕なりの明日が、未来が開けた。束の間そんな慰みと解放感に包まれたのを今も思い出す。
 お天道様から背を向けて夜に生きよう。僕の居場所は覚醒の現実ではない。無意識が解放される夢に拘りとことん追求しよう。鬱屈と恥辱にまみれた日常の中で夢が現実を凌駕する可能性を心に反芻。やがて思いはそこへ至った。
 以来三十数年。睡眠で見た夢を記録することを心がけるようになった。初めは大学ノートに筆記用具を持ちいて極シンプルに。やがてワープロ。パソコン。インターネット。SNS。……記録を落とす場所も変遷を遂げつつ紆余曲折。現在に至る。
 残念ながら一日も欠かさぬ夢日記とは相成らず。至極断続的形となってはしまった。そして十五歳で抱いた意志も既に色褪せた感はある。そもそも覚醒と眠りは三分のニの現実と三分の一の夢という形で明白に分けられるものでもない。思春期も今は昔。ここまで長く生きれば日常が覚醒と眠りの相互作用で成り立っていること。寧ろ何れにも隔たらないその豊かさにも認識が至るようになった。
 それでも夢への拘り関心は今なお根強く残っている。夢の記録も毎日は無理だが今なお継続されている。十五歳の胸を刺したあの短文が僕のその後に強く影響を与えたのは確かだ。
 今は主にmastodonを利用。長らくTwitterを利用していたがmastodonを利用するようになり割と調子が良い。Twitterも利用を始めた当初は調子良かったが早々煮詰まった。それに対してmastodonは利用を初めて二年が経つが、今のところ煮詰まり知らず。かなり調子良く利用できている。
 その違いは何か?
 もちろん文字制限の差だ。
 Twitter140文字に対してmastodon500文字。この差は大きい。
 確かに夢を記録するのに文字制限は無いよりあった方が良い。少なくとも僕はそうだ。取り止めも脈絡もない夢を記録しようとするに、何ら制約がない場所だと掴みどころが無さすぎて、形をまとめ上げることが難しくなってしまう。予め文字数に制限がある場を利用するとイメージとっ散らかるそれを纏めやすくなる。Twitterを利用するようになりそれに気づいた。
 しかし地道な記録とは何かと難しいもの。利用を始めた当初は調子良かったTwitter140文字。それが、やがて煮詰まりを覚えるようになったのだ。
 今度は逆に文字制限がネック。夢の豊かさを収めるに140文字ではあまりに少な過ぎたのだ。
 あっちを立てればこっちが立たず。こっちを立てれば逆にという感じ。繰り返しになるが、つくづく何かと難しいものだ。
 睡眠に見る夢を記録するのに僕にとって文字制限は無いよりあった方が良い。しかしTwitter140文字はあまりに少ない。
 我ながら勝手なそのジレンマ。しかしそのジレンマを解消してくれる場所が、有り難や、新たなSNSとしてひょっこり現れたのだ。
 それがmastodon文字制限500の世界だ。
 様々な場所を利用して三十数年続けてきた夢記録。間違いなくmastodonが一番しっくり来る。俄然その営為に充実度が増してきたのだ。
 文字制限500ぴったりに見た夢を再構築。すると毎回では勿論ないものの、時に掌編的物語性を帯びたものも紡ぎ出せるようになった。読み返してみて我ながらそこそこ面白いと感じるものも増えた。
 もちろん星新一と比較するのは烏滸がましい。しかし500文字ぴったりに纏め上げたこの夢記録を今後もしも千篇ものせたら、或いはそれなりの世界を構築出来るのではなかろうか。mastodonを夢記録に利用するようになり二年。最近折に触れてそんなことを思う。三十数年の営為を経てようやく、そして遅きに失した感もある。十五歳に読んだあの文章には、「仮に人生六十年として」と書かれていた。当時は想像するも難しい遠い遠いゴールの筈だった。しかし今その六十年のゴールも間近に迫っている。
 それでも500文字の営為なら十分まだ間に合う筈だ。そう、千篇の目標を立てても……。
 という次第で新たにこのアメブロの場に、「500文字で纏めた夢記録」という項目を立てることにした。そしてこの項目にmastodonで記録した夢を移行、少しずつ落としてゆこうと思う。
 死ぬ前にこの項目が1000に達したら、残り余生に立てた僕の目標達成だ。果たしてその日は来るか否か。
 駄目なら駄目で構わない。今さら慌てても詮も
ない。千を目標とはするが詮もない。
 うん。思わず駄洒落てしまった。いずれにせよ、あくまでマイペース。盆栽を丹念に手入れして丁寧に育んでゆくように、日々の取り組みとしてゆこう。
 とりあえず挨拶がわりに「500文字で纏めた夢記録」一発目は本記事を落とす。以降は実際の500文字の夢記録。つまり正確に言えば1000ではない。この項目に落とした記事数1001に達した時、余生に立てた僕のささやかな目標達成だ。
 この場にて目指せ星新一の簡易版。千夜一夜の劣化版。その益体なさにずっと拘ってきたのだ。簡易版だろうが劣化版だろうが、何なら吹けば飛ぶ塵芥でも構わない。
 とにかくGo!