映画『窓ぎわのトットちゃん』 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 先日、夜勤明けを利用して映画館へ向かった。
 職場から直行。歩いておよそ十五分の距離。
 切符を購入後トイレに入り、館内の自分の席に着いたのが開始時間五分前。待つこともなく、かといって慌ただしくもなく、絶妙のタイミングでスタンバイOK! 勤務明けを朝から上手く活用したい僕のために用意されたような開始時間が有り難かった。
 観たのは遅ればせながら『窓ぎわのトットちゃん』。今更説明の必要もないだろう。1980年代にバケモノ級ベストセラーとなったあの作品のアニメ化。今回は著者の黒柳徹子さんも積極的に考証に参加しているとのことで、戦前から戦中にかけての時事風俗が丁寧に描き込まれた評判通りのクオリティ。細部に渡るこだわりが観ていてはっきり伝わってくるメルヘンかつノスタルジックな絵柄が心地よい。
 ストーリーテリングは至ってシンプル。国を上げての熱狂とともに国家存亡の危機に自業自得で転がり落ちようとしていたあの時代、そこに生きる人たちの日常が特にトットちゃんの学園生活を中心に描かれてゆく。あくまで無垢で屈託のないトットちゃんの日々。学友たちとの時に切なくも微笑ましい交流。当たり前のそんな日常を丹念に淡々と描く。それが平和な日常への愛しさに自然に結びつき、イコール反戦への静かな意志表明にも結びついていた。そのスタイルは同じアニメ作品『この世界の片隅に』をも思い出させる。本作は戦前まだ豊かだった頃の日本にも多く尺が取られているが、『この世界の片隅に』同様、銃後の日本に生きる不自由、やり切れなさが、日常を通してさり気なく描かれているところにも特徴がある。好奇心旺盛なトットちゃんの豊かな日常。他者への無邪気な信頼。それがメルヘンチックにとことん描き込まれている。だからこそ尚更それを打ち壊し裏切る戦争ならびに戦争に進んで加担する国家および人民の愚かさが醜い。メルヘンを反戦を主張する一つの武器として意識的に成り立たせている作品だった。
 そして何より本作は泰明ちゃんの存在が狂おしく愛しい。そして切ない。
 小児麻痺で生まれつき片足と片腕が上手く動かせない泰明ちゃん。今も身体が弱くて友達とも同じように遊べない。当然のように自分の殻に篭りがちとなり、学園でもいつも一人本を読んで過ごすことが多い。
 まだ小学一年生なのに何かを悟り諦念とともに生きている泰明ちゃん。そんな泰明ちゃんの前に現れたのが、天真爛漫、これ以上なく無邪気な子供、転校生のトットちゃんだった。
 悪く言えば空気が読めない。しかしそれ故に他者に臆することのないトットちゃんに困惑しながらも次第に打ち解けてゆく泰明ちゃん。そして読書にしか自分の居場所を見出せなかった泰明ちゃんの世界がトットちゃんを通して少しずつ開かれてゆく。トットちゃんの協力の元、トットちゃんのお気に入りの木に登り、そこで眺める景色、更には風や日差しの心地よさを知る泰明ちゃん。トットちゃんの強引さに服を脱がされて初めてプールに入る泰明ちゃん。水の浮力で自分の身体が軽くなることを泰明ちゃんはそこで知る。そして不自由な身体から魂が解放されたかのような恍惚を得るのだ。
 この泰明ちゃんとトットちゃんの関係性が良い。間違いなくトットちゃんという積極的な友達が泰明ちゃんの世界を広げてゆく。しかしそれは一方的に与えられるだけの関係ではない。泰明ちゃんも又トットちゃんに足りないものを与え、知らない世界に導き、トットちゃんに多大な影響を与えている。この関係性この交流を世にどうしても伝えたかった黒柳徹子の思いが、エピソードごとにひしと伝わってくる。
 泰明ちゃんは病気が元でその後すぐ亡くなってしまう。しかし人が本当に死ぬのは生きている人たちから完全に忘れ去られた時だ。ONE PIECEの Dr.ヒルルクも清々しく最期そう言い放っていたが、この作品でも又、ありがちなそんな言葉を素直に信じたくなる。
 わずか十年にも満たない生涯を、それでも周囲に恵まれた泰明ちゃんは楽しいこともたくさん経験しながら懸命に生きた。決して生まれてこなければ良かった存在ではない。その存在を、生きた証を、生き延びた友達が後世に伝えるために繰り返し語る。
 そして泰明ちゃんは八十年以上の歳月を経てアニメのキャラクターとして転生。本作に再び刻まれた。
 この先も泰明ちゃんは大人びた心やさしき少年として永遠に生き続けるだろう。
 自由で平和な世界への願い。ともえ学園への郷愁。そして今は亡き幼友達への思い。生涯に渡り持続される黒柳徹子の切なる諸々の心情。それがアニメに再構築された本作。アニメでしか表現できないものをアニメでとことん追求した理想的なアニメ作品だった。