中原昌也『子猫が読む乱暴日記』 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 以前に『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』を読んでいるので中原昌也の小説を読むのは本書が二冊目。音楽に関しては暴力温泉芸者のCDを三枚所有しているが、今回は小説に感想を集中したい。
 本書も『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』も、いずれも短編集。しかし一連のこれらを小説と読んでよいのか躊躇われるほど、中原昌也がものす短編は皆、独自の壊れ方をしている。およそ小説を小説たらしめる起承転結は端から放棄され、論理は完全に破綻しているのだ。高橋源一郎のようなポストモダン的なものも想起されるが、僕が接したそれら作品はそれでも小説としての体裁は本書に比べれば感じた。初期の筒井康隆や同時期にハチャハチャと呼ばれていた一連のSFムーブメントも、本書に比べれば物語として十分構築されていた。中原昌也の世界は更に物語性が解体されて、まだ未完成のアイデアメモ風のものが乱雑に散りばめられている印象なのだ。読みようによっては睡眠に見る夢を物語として再構築せず、そのまま放り出したかのようでもある。内容もシュールな猥雑性や暴力に満ちていて、又それが抑圧された無意識が解放された夢の世の出来事そのものだ。筒井康隆も睡眠で見た夢をアイデアとして多用するが、さすがに御大は小説としての再構築の手腕が見事だ。
 それに比べて中原昌也の世界は……。
 しかし実は、この最初は途惑う壊れた断片の寄せ集めのような世界が、ひとたび嵌ると堪らなく心地よくなるのも事実。実際これら作品が眠りに見る夢がモチーフとなっているかどうかは定かではない。あくまで僕が接した印象に過ぎないからだ。しかし若い頃から折に触れて夢を記録してきた僕にとって、中原昌也のこのスタイルが新たな刺激を与えてくれたのは確かだ。
 睡眠で見た夢を覚醒の脳で再構築しようとする必要はない。寧ろ夢の素材を生かした形で、こんな風に放り出すのも一つのやり方なのだ……と。
 本作が睡眠の夢にこだわってきた僕に改めて良い刺激を与えてくれた。
 僕も又、今後も折々夢を記録してゆこう。夢を出来るだけ夢のありのままに拾い上げて、それを僕なりのやり方で新た文章表現に様変えよう。
 いや、夢の素材を活かす形が存外難しいのは長年の営為で僕も承知している。しかし生涯に渡ってこだわり、試行錯誤するに足る場所が、僕にとって眠りの向こうに広がる夢の世なのだ。
 何が良いって睡眠に見る夢はお金を払う必要がないということだ。無料でこれだけ豊かな世界、他に早々ない。