第八巻となる本作は、山頭火が亡くなる昭和十五年の日記が、実際に亡くなる三日前の、十月八日まで収録されている。最後の二日ほどの日記は意識の混濁を若干感じさせ、それはそれで趣がある。しかし亡くなる年の日記と考えれば筆力にさほど衰えも感じず。最後の最後まで言葉を通しておのれを表現し、世界を掴み取ろうとしている。その姿勢には素直に敬意が湧く。死ぬ直前までこまめに日記をつけ、句作も続け、ある意味、勤勉で真摯だ。しかしそれはある意味であって、そこに書かれてある内容は最後まで酒にだらしなく、生活を自ら立てることもできず、周囲に迷惑をかけっぱなし。施しを受けることでしか生きられなかった生活破綻者の赤裸々な心情とその実態だ。昭和五年から始まる山頭火の晩年十年の日記は、山頭火研究の第一人者である村上護が第三巻の前書きで要を得て書いているが、まさに自戒・破戒・懺悔の円環だ。行乞と言えば何だか最もらしく聞こえるが、要は物もらいを繰り返しながらの放浪。晩年は周囲の温情で与えられた庵を栖に、とどのつまり最期まで駄目な生き方しか出来なかった。そんな一人の無様な男の心情が、手を変え品を変え、見事に同じ円環の中で綴られている。全八巻。十年分の日記の本質を端的に言ってしまえばそれだけだ。死ぬ間際までそれはまったく変わらなかった。
どうしようもないわたしが歩いている
山頭火本人も身も蓋もない句に落としているが、実際、どうしようもない男がどうしようもなく生きてそのまま死んだ。それだけの記録だ。所詮それだけに過ぎない。しかしこの男は、おのれのどうしようもなさに最期の最期まで足掻き続けた。そのどうしようもなさから抜け出して真っ当になろうともがいた。山頭火で共感できるのはあるいはその一点のみかも知れない。しかしその一点のみで、他の浮浪者とは一線を画す存在となっているのも確かだ。そしてその一点のみで、事実かけがえもなく愛おしい。
山頭火の享年は五十七。僕は今年で五十二歳となる。そろそろ僕も残り余生を意識しなければならない年齢となってきた。後何年生きられるのか、精々最期まであがきもがく意思は持続していたい。
そう言えば山頭火は晩年のスタートラインにつくに当たり、若き日の日記を自らの手ですべて燃やし尽くしたのだ。再出発の新たな意思のために。
今となっては勿体無い話だが、そのエピソードも一つの励みとなる。大丈夫。十年、いや、五年でも、何か刻むものは刻めるはずだ。
当然といえば当然だが、最初に読んだ二十代の終わり頃より、この五年間で少しずつ読み返した営為のほうが、内容がより身に沁みた。