自他共に認める有能な執事スティーブンは、長年に渡ってダーリントン卿の豪邸で誇りを持ってその仕事を追求する日々を過ごしていた。しかし政界にも多大なる影響力を持ち合わせていた敬慕する卿は、戦後、ナチスへの協力者という汚名を負い、社会的に抹殺されてしまう。尊厳を根こそぎ奪われたダーリントン卿は程なくして、失意と共にその命も尽き、やがて豪邸もアメリカ人の実業家ファラディの元に受け渡されてしまう。スティーブンはそのまま屋敷に残り、新たな主人の元で執事の仕事を続ける。今までと変わらず、責任と誇りを持って、新たな主人の元でも仕えようと努めるスティーブン。しかしアメリカ人の主人の元では、古き良き時代のイギリス人執事の振る舞いが通用しない面も多々あり、何かと困惑することも多い毎日を過ごしている。アメリカ人が好むユーモアの勉強もしなければと試行錯誤を繰り返しながら、しかし、なかなか上手くゆかない迷走の日々だ。年齢的にも些か草臥れを感じ始めている。そんなある日、スティーブンはファラディから、「自分がアメリカに帰国している間、車を貸してあげるからドライブ旅行でも楽しんでおいで」と提案を受ける。ダーリントン卿の元、まとまった休暇とも旅行とも無縁で、仕事一筋で生きてきたスティーブンは、最初その提案を途惑いと共に断る。しかしファラディからの再三の勧めに、やがて心変わりを覚えたスティーブンは、その勧めに応じて、ドライブ旅行に出ることを決意したのだった。旅行の途中で、以前この屋敷で有能な働きぶりを示していた女中頭ケントンの元を訪れ、もしも彼女を仕事へ呼び戻せたならば、現在の人手不足の解消にも繋がるのではなかろうか……旅に出る目的を仕事に結びつけることで、そんな風に自分を納得させて……。
本作はそして旅に出たスティーブンの、イギリスの田園風景に車を走らせる六日間の道程に回想を織り交ぜた内容。執事の品格とは何か?……そのテーマを自問自答しつつ、回想されるダーリントン卿に仕えた日々。一人称形式で紡がれるその回想と思念は、素晴らしい主人に仕えることが出来た感謝と、執事の仕事を責任を持って追求して来た己への誇りに満ちている。しかし道中を重ねるにつれて、その回想と思念が、およそ執事としてのアイデンティティだけで生きて来てしまったスティーブンの人間的欠落を仄かに、しかし確実に浮き立たせてゆくのだ。例えば真っ当な人間なら湧いて然るべき好奇心を執事としての良識を優先して抑圧して来た日々。例えば執事として有能であるために、恋愛とも無縁で生きて来た日々。そこには女中頭ケントンが長きに渡って自分に寄せていた恋情に気づこうとしなかった、極めて鈍感な残酷さも含まれている。
そしてスティーブンは旅の終わりに疲労感と共に悟るのだ、自分が畏敬の念と共に支えていたダーリントン卿は、時流に翻弄されて政治的判断を誤った、あさはかな差別主義者に過ぎなかったこと。更には自分が価値観を置いて生きて来た歳月の虚しさを……。
ここに至るまでのスティーブンの思念の流れが実に見事。自分が支えて来たダーリントン卿が如何に素晴らしい人物だったか、更には執事としてのアイデンティティと共に生きて来た日々が如何に充実していたか、自分の過去を美化して回想すればするほど、そこからこぼれ落ちるものに負の真実が宿る。そしてそれが吹き溜まってゆくにつれ、如何に自分が生きて来た日々が、いびつに偏った虚栄なものに過ぎなかったか、もう取り返せない一抹の悔いと共にスティーブン本人の心中にも湧くようになる。物語の最後、海辺の夕暮れの公園で桟橋に灯りが点るのを待ちながら涙ぐむスティーブンの心中は切ない。それでも前向きに、今はファラディさんの元で執事としての仕事を全うしようと思い直す心中は更に切ない。それだけを価値軸に生きて来たスティーブンは、今はもう執事としての生を全うするしかないのだ。およそ性格的に無理があるユーモアを、それでも有能な執事であり続けるためにマスターしようと改めて心に誓う、その滑稽さに哀感が滲むほどに……。
最初から最後まで洗練された文章と構成力。思念は斯く流れると納得させられる一人称形式も見事。そしてスティーブンの愚かさが、自分の人生と重ね合わせて共感が湧く、筆致に宿るやさしさも魅力。読み返す機会は恐らく又訪れるだろう。まさかこの歳になって、これだけ自分を揺さぶってくる愛書が、また一冊増えたことを嬉しく思う。まだ未読のカズオ・イシグロ作品も、もちろん読んでみたい。