田村隆一『続続・田村隆一詩集』 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 木は黙っているから好きだ
 木は歩いたり走ったりしないから好きだ
 木は愛とか正義とかわめかないから好きだ

 ほんとうにそうか
 ほんとうにそうなのか

 見る人が見たら
 木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
 木は歩いているのだ 空にむかって
 木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
 木はたしかにわめかないが
 木は
 愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
 枝にとまるはずがない 
 正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
 空にかえすはずがない

 若木
 老樹

 ひとつとして同じ木がない
 ひとつとして同じ星の光りのなかで
 目覚めている木はない

 木
 ぼくはきみのことが大好きだ

 本書に収録されている『木』という一編。他にも素晴らしい詩が幾らでも拾えるが、敢えて一編ピックアップすると僕の場合これ。詩としての体裁が他の作品よりまとまっていて、イメージも鮮やかだ。今まで木に抱いていた認識が刷新されるような心地よい空想が、一編の詩に見事まとまっている。特に「木は歩いているのだ空にむかって」という件りは、この頃かなり煮詰まって、希死念慮にも危機的に苛まれている心に妙に切なく沁みた。うっすら涙が滲みかけるほどに。
 来世は木になってもいいな。かぎりなく薄い思念を囁きに変えながら、僕も長い歳月かけて空へ向かって歩くのだ。日々小鳥をとまらす愛そのものとなり……
 うっすら涙ぐみながら、僕もしばし、そんな死後のイメージを憧憬した。
 しかしシリーズ三作目となる本書で、あるいはもっと重要なのは、行分けされたエッセイとも取れる詩群かもしれない。三作とも前半は詩集からの抜粋。後半エッセイという構成の本シリーズ。一作目、つまり初期に関しては詩とエッセイは明確に違う質感を抱かせた。詩は観念だけで構築された純度の高い象徴詩。エッセイは重厚な散文だ。しかし田村隆一晩年の仕事にあたる本書になると、前半の詩も後半のエッセイも、同じ質感を抱かせる。詩がエッセイであり、エッセイのなかに詩が散りばめられている。そんな印象だ。
 あるいは三作目、つまり晩年のこういうエッセイ風スタイルを、田村隆一の詩人としての衰えと批判的に受けとめる向きもあるかもしれない。実際あまりに説明臭かったり、箇条書きの散文に流れ過ぎて、詩としての体裁を成していない作品もある。初期のような硬度な緊張感は失われてしまったのも確かだ。
 僕はしかし晩年の田村隆一のこういうスタイルを肯定的に受け止めたい。詩を書くという営為を、感性が鋭敏な若い頃の自己表現手段として利用して、あとはあっさり卒業してしまうのでなく、青春が終わった後も拘泥し続けた。そういう詩人のみが達することができる、日々生きることイコールすべて詩という境地に晩年の田村隆一も達している。観念性が紡ぐ詩の豊かさではない。生活が詩に直結する豊かさが、本書、つまり晩年の田村隆一の詩、あるいはエッセイからは感じ取れるのだ。

 少年や青年があふれ出る若い生命感と鋭敏な神経と巧みな修辞法と、いい資質とを、半ば無意識に奔騰させて、いわば生の過失の独白といった案配で創造された詩作品という性格はもっていない。その代わりに知識も教養も生活の瞬間の感想も、くせになった慣用句も、思索のあとも、すべて詩という器のなかに煮込まれている。行わけされたエッセイとして読んでもいいし、覚え書きの断片として読んでもいい。また思索のよく練られたノートとしても読める。もちろん詩として純乎とした作品になっている。こういった性格は年齢を加え、成熟した言葉の技術と見聞を拡げるにつれて、ますます鮮明になってゆく。

 本書の吉本隆明の解説からの抜粋。僕が本書の田村隆一の作風に覚えた印象を、さすが的確に言い表してくれている。これは詩だけにあらず。一つのミニマルな表現スタイルにとことんこだわり続けた表現者が目指すべき境地は、あるいはここなのかもしれない。
 RCサクセションの終わり頃から晩年にかけて、清志郎が歌で目指したかったのも、あるいはこういう境地だったのかも……ふと、そんなことを思った。清志郎も又、歌で表現できないことはないと言わんばかりに、特に後期は日常のありとあらゆることを歌にしていた気がする。ほとんど散文をそのまま歌にしたような作品もある。
 清志郎のそんな試みも、かなり良い線まではいった。しかし惜しいかな、清志郎には少し時間が足りなさ過ぎた印象は覚える。
 もしも今も生きて歌い続けていたら、あるいは清志郎の世界も、本書のような豊かさに辿り着いていたかもしれない。本書の感想に、そんなことも付け足したくなった。