思春期はものおもふ春 靴下の丈を上げたり下げたりしをり (小島ゆかり) | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 五十路を過ぎて、すっかり自分の着る衣服に無頓着になった。極端に悪目立ちしていなければそれでいい。コーディネートとかも気にしない。家にある服を適当に着回して、新しい服も殆ど買わなくなった。セーターの襟元に多少の綻びがあっても、まぁいいや。まだ十分着られるだろうと頻繁に袖を通している。靴は職場でもプライベートでも一足の靴を五年近く履き続け、ここまで底が擦り減っては、新たに始めたランニングで、足への負荷が掛かりすぎる。怪我の元と気づいて、やっと新しい靴に買い替えた。如何にボロボロになるまで履き潰したか、新しい靴と比較してようやく気づいた次第。
 十代や二十代の頃の僕が今の自分を見たら、どう思うだろう? 特にファッションに拘りがあったわけではなかったが、それでも綻んだセーターを着て外出するなど有り得なかった筈だ。綻びのあるセーター。それに気づかれたら、周囲に嗤われるのじゃなかろうか? みっともないと見下されまいか?……そんな事をいつまでも気に病み、みっともなくて嘲笑の対象である自分を隠したくなる。一刻も早く家に帰ってセーターを脱ぎたくなる。慌てて新しいセーターを買いに店に走った筈。靴も然り。人は足元で判断するの格言通り、ボロボロの靴を履いていたら舐められる。というかそれ以前に、少しでも靴に傷みが生じたら、そんな靴を履いている自分が恥ずかしくて、外でリラックスして過ごせない。そんな若者だった気がする。さほどファッションに興味があったわけでなく、それなのに履いているズボンの丈の長い短いを神経過敏に苦にしたり、今着ている服が自分に似合っていないと思うと、そんな服を着て人前にいる自分が恥ずかしくて仕方なくなり、今すぐ逃げ出したくなってしまう。そういえばデートの最中、自分の着ている服のコーディネートが急に不安になったこともあった。ふと街中の鏡に映った自分の姿が、とてもダサく感じられた。特に色のバランスが極端にセンスが悪い……と。
 そうなるともういけない。デート相手から軽蔑されているのじゃなかろうか? みっともなさ過ぎて、既に愛想を尽かされているのじゃなかろうか? 周囲も、ダサくてみっともない奴が偶のデートで張り切り過ぎて大失敗!……と馬鹿にしているのじゃなかろうか?……そんな思いが心を堂々巡りし、ちっともデートが楽しめない。街中の鏡に自分の姿をこっそり映し、みっともなくないよね? 自分で思っているほど、みっともなくないよね?……と何度も何度も確認してしまう。せっかくのデートなのに、気持ちがそっちにばかり捕らわれてしまうのだ。そしてデートを終えて自宅に戻り、自分の姿をようやく鏡にじっくり映して、泣き出しそうな惨めな気持ちになる。既に心は草臥れ果てている。
 若い頃はそんな塩梅だった。これは服に限った話ではなく、ちょっとしたことが苦になると、そこから思念がなかなか離れなくなり、そればかり思い詰めてしまうのだ。しかし今思い返すと、苦になったことが本当にどうでもいい。まさに、ちょっとしたことばかり。我ながら救われない性分だったと思う。これも一つの性格悲劇のあり立ちかと、当時の自分を振り返って自虐的な気分も湧く。
 しかし多寡はあれど、それが思春期に誰もが持つブルーにこんがらがった心でもあるのだろう。
 当時ほどに些細なことが今は気にならなくなっているのは、経験を積んで心が太くなったから、というわけでなく、単純に脳の、それに伴う感受性の衰えなのだ。それは今の自分の生理感覚と照らし合わせて、はっきり断言できる。それを思えば些細なことが苦にならなくなった今が良いか悪いかは考えものだ。生きるのに楽になった面は確かにある。しかし、それが衰えによるものならば、やはり寂寥も胸中に滲む。神経が過敏になるほどの感受性も、もう残ってはいないのだ……と。
 生理的な衰えだけでなく、理性も投げやりになってしまった感がある。若い頃に思い詰めていたこと、例えば仕事の待遇とか結婚とか、そういう俗世的な面も含めて、明日への焦燥など今はもう全く湧かない。大概のことが既にどうでもいい。自分の人生も、残り少なくなって来ているじゃないか……悩みに至る前に、その真理がある種の慰みとなってくれるのだ。
 自分も遂にここまで来てしまったか……表題の歌にそんな感慨が湧いた。良くも悪くも僕の胸中には既に、「ものおもふ春」が巡りくることはないだろう。靴下の丈を上げたり下げたりする若さが愛しい。