良い詩とは? | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 Twitterのタイムラインに、「良い詩とは一体どういう詩を言うのだろう?」という考察と議論が流れていった。興味深く読んだ上で、僕にとっての「良い詩とは?」をここに述べたい。
 他者の詩に関しては、これはもう観念的な説明となってしまうが、言葉の連なりと質感が、自分の中にすんなり入って来る詩。意味が理解できるか否かは二の次。それが例え意味が全く理解できない、難解極まる抽象詩であれ、連なりと質感が自分にフィットすればOK! 例え意味が理解できても、その言葉が全く身に沁みなければ、それは僕にとって駄目な詩なのだ。
 自作に関しては、もっと明快に説明がつく。自分が書き上げたと思った瞬間、その詩が束の間なりとも自分に解放感を与えてくれる。それで十分、自分にとっては良い詩。その認識でOKだ。詩が果たすべき最大の役割は、書いた本人の魂の救済。それが一番大切で、他者へ届くか否かは二の次。三の次。ぶっちゃけ、どうでもいい。
 他者に届かなければ自己満足に過ぎないって? それで十分。 少なくとも詩は、詩に関しては、自己満足に至れば、それで十分良い詩だ。
 そもそも一瞬でも魂を解放できる、自己満足のレベルにまで自作の詩を昇華させるにも、それなりの修練と時間を要するのだ。
 そういえば十五年近くに渡って、ほぼ毎日、新垣結衣への募る思いを詩に託して更新しているブログがこのアメブロの場にある。新垣結衣が結婚を発表した時にTwitterで紹介されていて、僕もその存在を知った。新垣結衣の結婚にショックを受けたのか、しばらく更新が止まっていたが、又その後再開されて、今も更新は続いている。僕も偶に覗く程度だが、今なおその詩は新垣結衣への募る思いだ。
 嫌味でなく心底から、これが正しい詩のあり方だと思う。少なくとも新垣結衣への思いという形で日夜そこに詩を落としているブログ主は、その都度、自己が救われる感覚を束の間なりとも味わっているのだろう。詩とは本来そういう営為なのだ。そして繰り返し繰り返し同じモチーフで似たような詩を落とし続けているうちに、少しずつ変容してゆくものを、あるいはそのブログ主は心のどこかで感じているかもしれない。
 既に実在の新垣結衣にブログ主はこだわっていないかもしれない。自分の思いを集約させるフックとして、新垣結衣を通して自分のなかに育まれてきた幻影と今は対話している。漠然とだけれど、そんな気がする。そしてそれは決して蔑まれたり馬鹿にされるべき営為ではない。ある種の信仰にも似た、とても崇高な営為。そこに良い詩は生み落とされるのだ。生み落され続けるべきなのだ。