五十代に入り初めて迎えた新年に。 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 と大晦日の年末の挨拶に続いて、今日は年始の挨拶を落としてしまった。
 誰とも交流がないこの場所に。
 誰にも意識的に読まれていないこの場所に。
 しかし言い出したら切りがない。ここは日々よしなしごとをそっと告白し続ける、僕にとって一つの教会のような場所。そういう認識も抱いているので、不特定な読者が集合して紡がれた何か、それを神と呼ぶなら神と呼んでも差し支えないが、形而上的存在への挨拶ということで、一つ今年もよろしくお願いします。
 今年2022年は、50代に入って最初に迎える年。つまり僕も現在50歳。この年齢に達して、まず真っ先に思い出したのは、二十歳になるかならないかの頃、かなり思い詰めた気持ちで、自分にこう言い聞かせたことだ、〜人生50年。取り敢えず50歳までは可能性を諦めず、前向きに生きてみよう……と。そして更にこう思ったのも覚えている、〜50歳になって、世の中で何も成し得ていなかったら、その時点で潔く人生は諦めよう……。 
 高校卒業後、最初に就いた工場が平日は残業まみれ。休日も突然の仕事で潰されることしばしば。自分の時間がなかなか取れない現状に、あたら若い日々が、慌ただしく削られてゆく。そんな中で、焦るな!……という気持ちを込めて、当時は自分にそう言い聞かせた筈だ。〜焦るな。今はこんなに苦しいけど、自由も損なわれているけれど、これがずっと続くわけではない。そして人生は、まだ、たっぷり残されているのだ……と。
 思うに儘ならぬ日々。それでも当時は、まだ未来にたっぷり時間が残されている気がしていた。
 歳月はそして流れて、その時点で残されていた30年も既に使い切ってしまった。遂に50歳に到達した今は、当時の思い詰めた自分が哀しくもいじらしい。そして50歳に辿り着く遥か以前に、とっくに可能性など諦めた自分の心情も又。……
 人生50年という認識は二十歳の頃と変わらない。寧ろ観念的に思い詰めていた当時より、実際に50年生きた今の方が、実感として人生はやはり50年と思う。
 既に無理は効かない。 
 かなり草臥れも来ていて、心身いずれも、いつ壊れてもおかしくない。
 まだ終わりは見えていないが、終わりの始まりには差し掛かっている。現状それが正しい認識だろう。
 当て所ない夢を寄せるほどの未来は、もう残されちゃいない。健康管理には今まで以上に気を遣うつもりだが、それでも、いつ、どんな病気に罹っても仕方がない。そして、いつ死んでも……。
 既に明日に可能性のない余生。その認識に間違いはないだろう。
 それでも完全に終わりは生きられない。まだ憂鬱な職場に留まり続けねばならない。老後の準備も、後まだ少し残っている。中途半端なその現状が、今は苦しくもどかしい。
 それが2022年の元日。我が50歳の現在位置。取り敢えず今は、残り少なくなって来た時間を意識しつつ、一日、又一日、しっかり生きてゆこうと思う。将来への可能性とか、自己実現とか、そういう投資の意味合いではなく、あくまでも純粋に、一日、又一日を……だ。
 そして気づけば本当の終わりに辿り着いていればいい。心より、それが今の願いだ。
 それを50歳で迎えた新年の抱負とする。