映画『グローリー明日への行進』 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 キング牧師の主導した公民権運動の流れが分かりやすく描かれていて、アメリカ現代史のお勉強にもなる本作。しかし単に知識を得るだけに止まらない、作り手の差別に対する憤りと告発がひしと伝わってくる、誠実で良い内容だった。キング牧師を主人公に据えて、勿論その圧巻の演説もリアルに再現されていた。なぜキング牧師が公民権運動のリーダーとして祭り上げられたか、聞き手のエモーションを揺さぶってやまないその天性の演説の才を知れば俄然納得。しかし本作がより印象深く感じられるのは、キング牧師の偉大さ以上に、寧ろ、如何に黒人が日常的に白人から虐げられ、人間としての尊厳を踏み躙られてきたか、そこを主軸に描かれている処だろう。ガールズトークに昂じる四人の黒人の少女らが爆破で吹っ飛ぶ冒頭を皮切りに、惨劇の血の日曜日、更には白人の識者が公然と黒人を見下し差別しても何ら糾弾されない時代性が、当時の日常茶飯の出来事として淡々と描かれている。抑制されているが故に、その差別の描写、そして告発が、内省的な静けさを伴い胸を揺さぶってくる。目に見える、そして耳に聞こえる形で、心ない差別が大っぴらに蔓延っていた当時のアメリカの空気が、しっかり伝わって来たのだ。
 本作はマルコムXを主人公にスパイク・リーが撮った映画のようなスリリングさには欠ける。しかし良識を下敷きに誠実なメッセージ性が真摯に届いてくる、好感の抱ける内容だった。
 それにしても、本作でも少し登場するがマルコムXも、そして本作の主人公であるキング牧師も、共に暗殺されてしまったのだ。ごく真っ当な主張が命を犠牲にしなければ公に出来なかった時代。それが、まだ最近まで続いていた。それを思えば行きすぎたポリティカルコレクトネスという言い草は、今は「寝言も大概にしろ」の一言で方がついてしまう。実は僕も一時期、ここ数年の欧米のポリティカルコレクトネスは常軌を逸してると思っていた。若干それは今も感じている。
 しかしその急激な流れが、最近まで続いていた心なさへの真摯な反省に基づいたものならば、今は些かヒステリックで度が過ぎていると感じられても、それは受け入れる時期なのだ。それくらい人種差別は世界を通して、今なお深刻な問題だ。
 勿論、それは日本も他人事ではない。
 今はまだ欧米に比べ遅れ気味で、戸惑いが先立っている気がする日本の現状。一気に変革されなくてもいい。少しずつ理解されて行けばいい。やがてマイノリティ差別は絶対悪、おちょくることも許されないと浸透すればいい。