山頭火 日記(七) | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 昭和十四年〜十五年二月までの日記収録。
 山頭火の生前最後の年に遂に辿り着いたこの日記を読んでいると、人はどうしようもない日常を、それでも生きている限り繰り返してゆくしか術はないと、当たり前と言えば当たり前の感慨がしみじみ湧く。ここに収録されている日記内でも、相変わらず周囲に甘え、たかり、酒に飲まれる今までと変わらぬ山頭火がいるばかり。折に触れて酒に意地汚い己を反省するのも相変わらずだ。そしてその戒めも長く続かず、又だらしなく酒に飲まれる。その繰り返し。
 決して高尚な世界ではない。俳句そのものも、手癖だけで量産された他愛無いものと今は思う。純粋な文学的評価で言えば価値より寧ろやり切れなさが先立ってしまう。基本どうしようもない世界だ。しかし記録されたそのどうしようもなさが、その記録に接した他者の抱えたどうしようもなさを癒し慰めてくれることもある。それが文芸の奇跡であり、魅力の一つだ。
 別に『カラマーゾフの兄弟』だけが文学として価値があるわけではない。村上春樹のストイシズムだけが正しいわけでもない。高尚でもなければ文人としての才もさほど豊かとは思えないひとりの乞食が残した日々の記録が、後の世のしがらみに生きる魂とほんの少し共鳴する。文芸の価値など、それだけでも十分なのだ。
 どうしようもない己を生涯克服できず、どうしようもなく生きて死ぬしかなかった一人のどうしようもない男。しかしそのどうしようもない男は、そのどうしようもなさを日々俳句に紡ぎ日記に刻んだ。
 どうしようもない記録が、同じくどうしようもなさを生きる他者の励みとなり慰みとなる。文芸の世界の魅力の一つであり、そして今の僕が文芸の世界に一番希望を寄せるのも、まさにここである。山頭火の日記、久しぶりに読み返せて良かった。