我が名はバレット | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 僕がポップミュージックやロックに関心を抱き始めた中学生の頃には、既に生きる伝説と化していたシド・バレット。精神を病んで音楽業界をドロップアウト以後、長い歳月に渡って実家に引きこもり、世捨て人として生涯を送った話は有名だけれど、その世捨て人時代のシドの日々に関しては、あまりはっきりとした情報が得られる事はなかった。まぁ遺された音楽だけが重要なのであり、既に新たな音楽を生み出す力も失ってしまった後の日々など、今更どうでもいいじゃないか……と言われればそれまでだけれど、一時期かなり夢中でその音楽にのめりこんだファンとしては些か気になるのも事実。
 そんな欲求をかなり満たしてくれる記事をTwitterのタイムラインに拾った。~隠遁後のシド・バレットの隣人であったデヴィッド・ソアという男の回顧録だ。
 これが凄く読ませる内容だった。いや、シドが亡くなった直後に発表された記事なので、廃人後のシドの奇矯っぷりが誇張された、読者の興味本位のゲスい内容を想像して読み始めたのだけれど、読後、そういう下世話さを期待して読み始めた己を恥じた。そういうゴシップ記事とは次元を異にする、シドへの憐憫と思いやりの窺われる、とても温かみのある内容だったのだ。
 いや、この回顧録を書いた隣人も、最初からシド・バレットの存在を受け入れていたわけではない。シドが隣家に暮らすようになったのは、時は1981年、著者が六歳の頃の事だったという。で、この記事の前半部分に当たるシドの痛々しい振る舞いには、そりゃ子供には恐れられて、地域住民の鼻つまみとなっても致し方ないと思わせる凄惨なものを感じてしまう。  
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シド・バレットを隣人に持つということは、あまりおもしろくないことだった。むろん、当時わたしは彼が何者であるか知らなかった。彼がロックの伝説的存在で、ピンク・フロイドの創設メンバーの一人であり、ファンの間ではポール・マッカートニーやデヴィッド・ボウイやピート・タウンゼントらとともに数え上げられる人物であると知ったのは、それからずっと後のことだった。最近、7月に亡くなったシドが1200万ポンドの遺産を残したということが明らかにされている。彼はピンク・フロイドの初期の楽曲のほとんどを手掛けた天才的な作曲家で、その中には『シー・エミリー・プレイ』や『アーノルド・レーン』も含まれていた。しかし彼の奇行は次第にひどくなり、彼らのファースト・アルバムが出たのちの1968年にバンドから外された。ピンク・フロイド――ロジャー・ウォーターズ、リチャード・ライト、ニック・メイスン、そしてシドの後釜となったデヴィッド・ギルモア――はバンドを存続し、ロックの世界でもっとも成功したもののひとつとなった。シドのキャリアは2,3枚のソロ・アルバムの後にやがて消えていったのだった。

そんなとき、彼は我が家の隣りに移ってきたのだった。わたしの家族はケンブリッジのセント・マーガレット・スクエアの7号に住んでいた。そこは30年代の二戸建て住宅の静かな袋小路だった。シドの母ウィンフレッドは隣の6号に住んでおり、1981年、わたしが6歳のころ、彼女の息子が母親と住むためにロンドンから帰ってきたのだった。はじめて彼を見たのは、わたしが家の前の道で自転車を走らせて遊んでいたときだった。目立たない30代半ばごろに見える散切り頭の彼が、庭ばさみとのこぎりを手に家から出てきた。彼は黙ったまま家の前の庭の木や植え込みをばさばさと切り落としていった。その庭はかつて美しかった――家の前の持ち主がケンブリッジ大学の植物園に勤めていたのだ――が、シドがそれを終えたころにはまるで竜巻に吹き荒されたかのようになってしまっていた。

彼は木の幹をみんな切ってしまって、裏庭に引っ張って燃やしてしまい、それらは大きなたき火となった。わたしの両親は非常にうろたえていたが、なすすべはなかった。この一件がこののち何度も何度も繰り返されることになるお決まりのパターンのはじまりだったのかはわからなかった。木々がまた伸びてくるたびにシドは切り落として燃やした。また彼は定期的に彼の芸術作品――ジャクソン・ポロックをほのかに思い起こさせるようなサイケデリックな絵画――を壊して焼いた。たき火はひじょうに大きく、7フィートにも8フィートにも届きそうな炎が上がり、厚ぼったい白い煙が通りじゅうにただよった。わたしの両親と親しかったシドの母は彼女はいつもすまなそうにしていたが、彼女も息子を止めることはできなかった。

彼の絶叫は夜昼問わず起こるのだったが、たいていは、わたしがちょうどベッドに入るころ始まるようだった。家具が壊されるときのドシン、ガチャンという音、そして人間のものというよりは獣のような叫び声がひっきりなしに聞こえてきた。こういう状態は2時間ほど続き、小さなこどもだったわたしを怖がらせた。それはたいてい支離滅裂で怒りに満ちた金切り声だったが、ときどき言葉が聞き取れた。それらはいつも同じで、「くそったれロジャー・ウォーターズ!ぶっ殺してやる!」というものだった。

まもなくわたしたちは、シド自身を責めるのは無意味だということをさとった。彼の振る舞いにかんして彼と話をつけようという試みは、よくてもうつろなまなざしを向けられるだけで終わった。ときどき、彼は口汚いおそろしいののしりの言葉の奔流を爆発させることがあった。シドの心が燃えさかっているあいだ、わたしたちにできたことは家の中に避難してドアや窓をみんな閉めてしまうことだけだった。シドはまったく気にもかけなかった。だが例のたき火はわたしたちの心配ごとの中ではもっともささいなことだった。平穏なときは頻繁に聞こえるガラスの割れる音で中断された。シドをさいなむ内なる悪魔が彼を打ち負かすと、彼は窓からものを投げた。これは少なくとも100ぺんは起こったことだった。

彼の家の芝生はしばしば割れたガラスやマグカップ、フライパンや部屋の装飾品などで散らかっていた。ときどき窓ガラスを割る音が真夜中にはじまると、彼がうちに襲いかかってはこないか怯えて再び眠ることができなかった。いつか彼が自分の家の窓をみんな割ってしまって、うちの窓でやりはじめるぞと信じ切っていたからだ。ときどき窓は修理されたが、次の日にはまた割られていた。シドは地元の注目をひとりで引き受けていた。

しかし彼のふるまいの中で、絶叫の発作にはもっとも悩まされた。何時間もむせび泣きながら鋭い叫び声を上げる大人の男の声を聞いて、わたしと2人の姉妹たちは怯えた。わたしたちは精神病について何も知らなった。わたしたちにかかわる限りでは、取り乱した、おそらく危険な気ちがいの隣りにわたしたちは住んでいるということだった。ある夜シドが拘束服を着せられて連れて行かれた時、わたしたちの最悪の恐怖は確信に変わった。その前にわたしたちは警察を呼んだことが2,3回ほどあった。警察官たちはやってきてシドの母と一言交わすだけでそれ以上のことは何もせずに行ってしまうのだった。

しかしこのときは彼の爆発はとくべつ暴力的で、あとになってわたしたちは彼が母親にも襲いかかったのだということを知った。彼女は警察を呼んだ。わたしは覚えている、シドが拘束されて連れて行かれるのを窓からじっと見ていたことを。彼の母はとても困惑していて、どうか落ち着いてと彼にうったえていたが、大量のののしりを吐き出していた。あの人がもう戻ってこなければいい、とわたしは願った。しかし彼は2,3日して再び帰ってきて、彼の母は娘のローズマリーのもとへ移ってそこで暮らしていた。ローズマリー。彼女ももはやシドを扱い切れなかった。その後、ローズマリーが彼の面倒をみるようになった。彼女は毎週シドをセインズブリーへ買い物に連れて行った。その店までは10分ほどだった。

彼女はシドを車に乗せそこまで連れていくと、まるで彼が子供であるかのように一緒に店の通路を連れて歩き、また車で連れ帰るのだった。彼はローズマリーが彼のためにドアを開けて、そして家まで連れて帰るまで車の中で座っていた。まるで自分がどこにいて何をしようとしているのかわからないようだった。彼の母の死によって、彼の行動は以前と同じようになった。わたしたち一家は早期警戒システムのように、彼が手に負えなくなるとローズマリーに電話した。彼女はやってきてまるく早く事を収めた。

バンドを去ってからシドはピンク・フロイドにほとんど興味を示さなかったと言われているが、例のたき火と窓ガラス割りがピークに達していた1986年のころ、ウォーターズと他のメンバーの間で法的な争いのことでフロイドがニュースに取り上げられた。おそらく偶然の一致だったろうけれど、シドは何かについてウォーターズを責めているようだった――彼の名前だけがシドののどからほとばしる叫びの中であげられていたからだ。もし彼が逆上してわたしたちに襲いかかってきたらどうやって身を守ろうかとわたしはよく心配した。シドの姿はわたしに『シャイニング』のジャック・ニコルソンを思い出させた。
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 はっきり言って無茶苦茶である。近所にいたら甚だ迷惑なキ印さん以外の何物でもない。ましてや隣人だったら堪ったものではないだろう。六歳当時の著者が異常なシドの姿に『シャイニング』のジャック・ニコルソンを重ねるのも致し方ない、というものだ。実際ここまでの狂人が隣人にいたら身の危険も感じるし、気が休まる時もない。この記事が、如何にシドが迷惑な存在で、長年に渡って苦しめられてきたかを愚痴り非難する内容に終始したとて、とても責められるものではないと思う。
 しかし著者は長じるに連れシドがどういう存在であったかを知る。そして次第に同情の念を寄せるようになり、ほんの少しづつ、そう、決して心から親しくなることはなかったけれど、ほんの少しだけ、隣人としてシドと交流を図るようにもなってゆく。この後半の展開に凄く救われるものを感じてしまう。
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何年もの間、彼はわたしにわずかな言葉しかかけなかった。道ですれ違っても、彼は時々なんとか「こんにちは…」とつぶやくだけで、ほとんどの場合ただうつむいて急いで通り過ぎた。わたしを避けて道を横切ることもあった。彼を称賛しようというファンがたびたび押し寄せてきた。彼らはうちのドアを叩いてこう言うのだった。「シド・バレットはそこに住んでいるんですか?」いや、住んでいないとわたしたちは答えた。彼は誰にも邪魔されたくなかったし、もし彼がそんなことになったら“例のところに彼を送る”ことになっただろうと、わたしたちにはわかっていたからだ。

時々ファンたちは答えに満足せず、彼の家のドアへ突撃することがあった。たいてい返事はなかったが、時々彼はドアを開けた―おそらくうっかりと。彼は彼らが何者であるかさとると、連中の鼻先でドアをぴしゃりと閉めた。母の死から、彼は肉体的には悪化していった。彼はシャツを着るのをひどく面倒がったが、シャツのボタンをしめるのは苦ではなかったようだ。大きすぎるズボンをはいていて、だらしなく見えた。彼がパジャマの下だけの姿で道を歩いて行くのを、わたしたちは何度か見かけた。

彼は炒め物ばかり食べて暮らしていたようで、しょっちゅうフライパンを火にかけていた。炎がキッチンの天井まで伸びているというのに、シドの姿はどこにもないという状況に出くわしたものだった。彼は火の扱いに関してはずいぶんのんきだったようだ。彼はひどく酔っ払っていて、おそらく一日にウィスキーひと瓶を飲み干していたようだった。またシドは愛煙家でもあった。十代のころわたしは地元の新聞屋で働いていたのだが、シドは毎日のようにたばこを買いに来た。彼はいつも60本買って、ときどき刻みたばこや嗅ぎたばこなども購入した。彼はいつも違う銘柄を買ったものだった―「ロスマンズ20本、B&Hを20本、エンバシーのNo.1を20本」とか、「JPSを20本、エンバシー・リーガル20本、マルボロ20本」といったぐあいに。彼はそれ以外は一切言わずにたばことマッチを受け取った。彼が現金を手渡したことはかつてなかったが、代わりにその莫大なつけの請求書は彼の妹が処理することになっていた。さて、わたしは彼が何者であるか知ったとき、世の中に縛られたあまりにも大きな問題を抱えるこの中年の世捨て人と、昔の写真の中から微笑んでいる美しいミュージシャンを重ね合わせるのはひどくむずかしいと感じた。

超現実的なイメージに満ちた詩的なうたの書き手が、わずか一文でさえつむぐことのできない男になってしまうなんて、どうしてそんなことになってしまったのだろう?わたしは彼に関することをじっくりと読んだので、ほとんどの批評家たちが彼の問題を、彼が栄光の頂点にあるときにLSDによってもたらされた崩壊のせいにして述べているのを知っていた。シドの例はドラッグの危険性の悲惨な警告であった。あるとき、音楽雑誌がシド時代のピンク・フロイドを表紙に飾っているころ、彼は店にやってきた。

わたしはロジャーに――それが彼の本名だった、シドはあだ名である――こう言った、「あなたがモジョの表紙を飾っているんですよ、ロジャー」。彼は驚いているようだった。「ぼくもきっと買うよ」と彼は言った。わたしの印象では、彼は喜んでいるようだった。セント・マーガレット・スクエアで彼が過ごした25年間で、彼の笑顔を見たのは1度きりだった。それは90年代のことで、わたしがランチア・デルタHF turboを持っていたときだった―それは80年代にマティーニがスポンサーであったラリー用の車のレプリカであった。それはわたしには非常に鼻が高いものであった。ある日わたしは洗車をしていて、ホースをルーフに向けていたのでその両側に水がほとばしっていた。シドが彼の庭に現れ、いっぱいの笑顔を浮かべてわたしのほうを見つめながらたたずんでいた。彼が車の愛好者だということは知られていなかった―彼が持っている“乗り物”といえば古いぼろぼろの自転車だけだったからだ。わたしが思うに、この光景が彼の心をくすぐったのは、まるで木に水をやるかのようにわたしが車に水をかけていると感じたからだろう。もしかしたら、この場面は彼のアシッドまみれのヒッピー時代へ立ち戻らせたのかもしれない。

しかし、それもなかなかよいものだった。攻撃的でないときの彼は非常にもの静かだった。彼の家からテレビの音が聞こえたことは決してなかった。彼が音楽を流しているのを聞いたことはわずかにあったが―それはいつもクラシックかモダン・ジャズで、ポップスや彼自身の音楽であったことは一度もなかった。

晩年になってから、彼の常軌を逸したふるまいは次第に収まってゆき、絶叫もともに止んだ。それでもときどき例のたき火が起こることがあったけれど。わたしたちは彼からクリスマスカードをもらうことが2,3回あった。それは彼の手作りで、クリスマスの絵柄―ベルやひいらぎが白いカードに美しく描かれていた。「楽しいクリスマスを、ロジャーより」と、メッセージには書かれていた。ある年のこと、わたしは新聞でその日が彼の誕生日だということを知り、彼の郵便受けにカードを投げ込んだ。その次に彼に会うと、彼は「こんにちは」と言って2,3秒のあいだわたしの視線をじっくり受け止めていた。ありがとう、とわたしに言いたいようだった。彼への恐怖はなくなっていたから、わたしは胸が焦がれるような思いがした。彼の魂は深く苦しみ抜き、何よりも同情に値するものであると、わたしにはわかっていた。

シドは7月、糖尿病の合併症により自宅で亡くなった。彼は60歳で、それ以前にアデンブルックの病院に3週間ほど入院していた。彼が帰宅したとき、彼の妹は住み込みの介護人が必要になるだろうとわたしたちに言った。彼がすぐ亡くなったので、彼はたった1日と半日だけしか家にいなかったことになる。彼の家は最近人の手に渡ったが、それが売りに出されたときわたしは家の中を見に行った。彼の家の色の構図はとても面白いといえるもので―ある部屋はオレンジで、またある部屋はブルー、いくつかはオレンジとブルーとピンクの組み合わせになっていた―、もろくてがたがたの棚が寄せ集められていた台所は、シド自らの工夫が失敗だらけの冒険に終わったことの名残りをとどめていた。ひとつのイメージがわたしから離れなくなった。おもちゃのカバがドアのハンドルに釘でとめられていたのだ。計り知れず奇天烈で、そう、少しばかりいかれたシドならではであった。彼が亡くなったのは残念だったが―彼が恋しいと思うことは、おそらくないだろう。
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 音楽業界から姿を消し、生ける伝説と化していた頃、実際のシド・バレットの日々は想像を上回る悲惨なものであったみたいだ。しかし同時に、完全に孤立無援の生き地獄だったというわけでもなく、家族に守り支えられ、そして時には地域住民とクリスマスカードのやり取りをしたり、ちょっとした出来事に微笑みを浮かべたり、そういう束の間があった事もこの記事の後半部分に知れる。更にはその晩年は比較的精神状態も安定していた事も知れて、他人事ながら、ホッと胸を撫で下ろしたくなるような気分にもなった。例えその心の安定が、肉体の崩壊と気力の衰えがもたらしたものであったとしても……だ。
 今回この回顧録を読んだ事で、シド・バレットの音楽に新たな解釈や魅力が生まれる訳ではない。シド・バレットが遺した音楽と、彼が音楽の世界から足を洗って以後の日々は、当然なんの関連性もない。しかし全く別物と割り切った上で、今回この隣人の記事を読めて良かったと思う。華やかなスポットライトを浴びる世界から突き落とされて、悲惨極まりない日々を送っていると思われていた一人の男が、案外それだけでもなかった事に勇気づけられる。例え生き地獄のような日々だとて、懲りずに生きていれば、時には地獄に仏も舞い降りるものなのだ……と。
 僕の人生も色々な人達から見下されて憐れまれているけれど、でも、お前達が思っている程、それほど不幸という訳でもないぜ。