金魚飼育とセックス体験? | 春田蘭丸のブログ

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 Twitterのタイムラインに↓の意見を拾った、

同じ行為をくりかえしているようで、毎回違う体験があたえられるという点では、金魚の飼育はセックスの体験に似ている。そのためだろう、浮世絵では金魚とセックスが同じような扱いをされて描かれている。

 呟きの主は中沢新一bot。~ニューアカデミズムお得意のロジックが炸裂しているけれど、流石にこの論旨は無理があるでしょう。浮世絵で金魚が描かれる事が多いのは、当時の江戸の庶民の間で金魚を飼うのが流行っていたとか、後、金魚の華やかさが絵のワンポイントアクセントに持ってこいだったとか、それだけの話だ。それからセックスが題材として多く取り上げられているのも、当時の江戸の庶民は今よりおおらかにセックスを楽しんでいたから、後、当時の春画は現代のAVのようなズリネタのコンテンツとして活用されていたとか、要するにそういう理由に過ぎない。金魚飼育とセックスとの間に相関など全くないのだ。そもそも江戸の浮世絵職人が、「セックスと金魚飼育の体験の相似性が云々……」なんて、そんな小難しいこと考えながら仕事していた筈がないだろ。幾ら何でも論旨の立て方が無茶すぎるのだ。
 更に突っ込ませて貰えば、「同じ行為をくりかえしているようで、毎回違う体験があたえられる」のは何も金魚の飼育とセックスの体験に限った話ではない。仕事でも食事でも友人や家族との会話でも、下世話な話、排便とか排尿行為とか、心の持ちよう次第で何にでも応用可能な話だ。微妙な差異の快楽を金魚飼育とセックス体験の共通項と主張したかったのかも知れない。しかし水槽の中の金魚をぼんやり眺める心地よさと、相手との呼吸を計りながらせめぎ合うセックスの快感とは完全に別物。その辺でも無理があるのだ。
 と散々ケチつけておいて何だけれど、僕は中沢新一って嫌いじゃない。どちらかと言えば好きな学者だ。今回ここに紹介したロジックは流石に無理を感じるけれど、きっちり纏まった中沢新一のロジックは、得も言われぬ神秘的な陶酔へ誘ってくれるからだ。
 そして今回この無茶なロジックに笑わせて貰いながらつくづく思った、一見隙が無さそうなこういう秀才タイプの論旨も、最初の発端はちょっとした思いつきに過ぎなかったりするのだろうな……と。で、こういう一流の理屈屋は、そのちょっとした思いつきに説得力を持たせる為の論旨のテクニックを駆使できるものだけれど、必ずしもそのテクニックが上手く機能するとは限らず、今回のように駄々すべりに終わってしまう事もあるという。……
 今回この駄々すべり感が満載の呟きを紹介しながらあれこれ考えているうちに、いつの間にか勇気を貰えていたような気もする。そう、ロジックの天才とて、時にはこういう事があるのだ。それなら知性や教養とは無縁の僕が、端からロジックなど諦めたかのような駄文をここに書き散らしていたとて、何が問題になるものか……と。
 そう、今後もちょっとした思いつきを笑止千万な理屈に仕立てて、ここに書き捲ってやろう、今回の中沢新一の破綻したロジックに触れて、改めてそう思った。