歌.370 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 胃袋に納まる犠牲者数知れず南無あたたかき食後のほうじ茶。

 季節の到来、ということで最近は夕食に秋刀魚を焼いて食べることが多い。
 今夜のおかずも、ちなみに秋刀魚であった。
 要するに好物、という事で、秋のこの時期は、大根おろしの添えられた秋刀魚が一匹食卓に上がっていれば、それで十分麦酒は進む。焼酎も旨い。
 この間ツイッター覗いていたら、「秋刀魚をやっつけた!」という満足げな呟きとともに、食べ終えて、背骨と頭のみが残った秋刀魚の残骸を写真にアップしている青年がいて、それに対して、「甘えるな! 頭も背骨も残さず食えッ!」と突っ込みリプライ送っているおっさんを見かけたが、うん、確かに。得意げに、「やっつけた!」と写真に撮って公開するのなら、背骨も頭もきちんと胃袋に収めた上で、初めて、「やっつけた!」と宣言して欲しいものだ。名古屋人の僕としては、「エビフライをたいらげた!」と満足げな奴の皿の上に尻尾が残っていたら、「甘えるな! ちゃんと尻尾も喰えッ!」と突っ込み入れたくなるのと似たような心理なのかと思う(ちなみにエビの尻尾って、ゴキブリと同じ成分で出来ているそうだ。……甘えるなッ! それでも僕はちゃんと喰うッ!)。
 そういう意味では、僕は秋刀魚に対しても甘えていないぞ。今夜の秋刀魚も、食べ終えた時にはその皿の上に形骸ひとつ見事に残ってはいなかった。そう、腸は勿論、頭も背骨も、何一つね。
 まだ去年の秋に始めたばかりの習慣だけれど、試しに食べてみれば結構イケた、ということで、それ以来めざし感覚で、秋刀魚に関しては頭も背骨も残さず食べることにしているのだ。
 ゴミに出す手間も省けるしね。
 という次第で見事やっつけて、さっきまで秋刀魚が一匹乗っていたけれど今は何も乗っていない皿を前に、満足げに麦酒の残りをちびちび飲んでいたのだけれど、よく見ると、皿の端っこに赤いものが付着している。正式名称は知らないのだけれど、秋刀魚の腸をつついてるとそこからよく出てくるイトミミズみたいな奴だ。腸を攻めていたら案の定出てきたので、とりあえず皿の隅に除けておいたのだ。
 生きるって、それだけで、やっぱり罪深いことなんだよな……
 白い皿の隅にべったり張り付いている、そのイトミミズみたいな生き物の死骸を眺めていたら、そんな感慨がつくづく湧くと共に、切なさがしみじみ込み上げて来る。この卑小なる生き物も、何処かの海で懸命に生きていた処を秋刀魚に食べられて、時を経ずその秋刀魚も網に捕まり、巡り巡って、今この食卓の皿の隅に、そのちっぽけな死骸を曝している。その赤い身を電灯にしらじらと照らされて、身じろぎもせず死んでいる。……
 死後なお秋刀魚の腸の中に身を潜めて旅を続け、今この食後の皿の上に辿り着いた、かつて命を宿していたその卑小なるものが、その運命に思いを馳せれば何やらいじらしく、このまま台所に運んで、洗い物として水に流す気には到底なれない情が宿った。
 僕は皿の上に付着したその赤い代物を指で掬った。そして敬虔なる気持ちを込めて、「南無!」と呟き、そのイトミミズみたいな、かつて命を宿していたものを舌でねぶって喉元へ流す。……
 そう、「やっつけた!」という呟きは、こんな風に秋刀魚の罪までやっつけた上で、初めて呟きたいと思う。満足げな中にも一抹の贖罪の気持ちを込めてね。
 ちなみに最初に掲げた短歌は古い大学ノートから引っ張り出してきた自作。26歳か27歳くらいに作った歌と思われる。当時から既にこういう感慨に気持ちが向かう傾向が僕にはあったのだな……って、気恥ずかしくも懐かしい。だけど真面目な話、こういう気持ちはこの先もずっと、ぼんやりと抱き続けていたいと思う。そう、偏執的になったり、過剰に突き詰めたりしないように、あくまでも秋の夜長の物思いのような、ぼんやり淡いフィーリングとしてね。