映画『ミステリートレイン』 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 ジム・ジャームッシュ監督の映画『ミステリートレイン』の中で、一つ印象に残っているシーンがある。
 といっても四半世紀も前に一度観たきりなので、かなりうろ覚えなのだけれど、永瀬正敏と工藤夕貴が演じる若い日本人カップルがメンフィスを訪れて、とある簡易ホテルに宿泊する。その際、永瀬正敏がベットやら壁やら、そんな室内の些末なあれこれをやたら熱心に写真に撮りまくるのだ。
「ねぇ、なんでそんなもの撮るの?」
「ほら、旅先の風景って、結構記憶に残るだろ? でも、こういう泊まったホテルの壁紙の模様とか、ベット脇の置物とか、そういうのって、すぐに忘れちゃうじゃん」
 うろ覚えの処をかなり自分でアレンジして補足しているので、そっくりこのままの会話ではなかったけれど、工藤夕貴に写真を撮る意味を訊かれた際に永瀬正敏が返した台詞は、概ねこんな感じだったと思う。
 当時かなり填まって追体験していたクラッシュの元メンバーが、凄く間抜けな役柄を熱演していたのが寧ろ切なく思えたのを覗けば、このシーン以外もう殆ど記憶に残っていない。逆に言えば、このシーンがいつまでも記憶に残っているという事は、ホテルの室内の風景を丹念に撮りまくる永瀬正敏のその行為に何か共感を覚えるものがあったという事なのだろう。
 前の記事の補足のような話になるけれど、日本人のカメラ好きの本質をジム・ジャームッシュは見抜いていたのだと思う。
 斯く言う僕も、この映画を観た二十歳前後の頃、いま振り返ると些か病的に思える程、自分の日々を、ほんの些細な事でさえ忘れたくない、という偏執的な焦燥感に捕らわれていたような気がする。旅先とかイベントとか、そういう非日常的な体験は勿論の事、普段の代わり映えのない日常でさえも、その見た事、聞いた事、そして感じた事の、ありとあらゆる全てを忘れたくない、記録として残したい……という願望は、当時かなり強かったと思う。例えば、いつもの通い路ですれ違った、ちょっと魅力的な女性の仄かに香る匂いとか。例えば、ふと見上げた屋根の上で伸びをしながらあくびする猫の長閑さとか。例えば、項垂れたその目に映る、名も知れぬ雑草に小さく咲く花のそのけなげさとか。例えば、例えば、例えば…………
 短歌の実作を繰り返していたのも丁度この頃で、これも又、この瞬間を切り取って永久に保存したい!……という焦燥と衝動を発露とした営為だったのだと思う。
 何よりも当時はかなり病的なメモ魔だった。我ながら常軌を逸した熱情で、日常の一切合切を記録に刻んで記憶に止めたい、という欲求に振り回されていたのだ。
 あの焦燥と衝動の時期が、後ほんの少し長引いていたら、或は僕は神経を殺られて身を滅ぼしていたのかも知れない。幸いかな、二十代半ば頃から、些か偏執的であったその手の欲望からは徐々に解放されてゆき、現在の僕は、生活が破綻し兼ねない密度の濃さでその手の焦燥や衝動に振り回される事は全くない。こうやってブログを綴る営為が続いている以上、完全にそういう欲求から解放された訳ではないとも思うけれど、あくまでも生活の余儀として、至極バランスの取れた範疇で営まれている日課に過ぎないと自分では認識している。
 完全に脱け出してしまった今となっては、あらゆるもの全て、一切合切を記録に残し、記憶に焼き付けたい……という焦燥と衝動を生きていたあの頃が、些か懐かしくも感じられる。しかし、それならばその焦燥や衝動が結実して、あの当時の事は今なお、なにもかも鮮明に思い出せるかと言うと、当然そんな筈もなく、当時観た一本の映画さえも、その内容を既に殆ど覚えていない事が象徴するように、歳月の積み重ねの中で、寧ろ殆ど忘れてしまったのが事実だ。
 そう、結構思い詰めて、振り回されるように付き合っていたあの娘と過ごした時間も、今となってはその殆どを忘れてしまっている。
 だけど今は、もう、それでいい……と思う自分がいる。見た事、聞いた事、感じた事、そして匂いや味や、そんな様々な体験の、次から次へと忘れてゆきながら、人は皆この瞬間しか生きられない生き物なのだと思う。もう今は諦念まじりで、そういう認識を受け入れて生きている。
 この瞬間、又この瞬間、……その繰り返しの中で、今は記憶の隅に引っ掛かるものだけ引っ掛かってくれればそれでいい。
 お前と出会って十年の歳月も、ほぼ忘れてしまった。お前とのやり取りも、覚えていない事の方が多いだろう。
 でも、何もかも全てを忘れた訳ではない。例え忘れても、楽しかったとか嬉しかったとか、そういう感情それのみは、身の内にしっかり残ってもいる。

 清志郎がその晩年に作ったと思われるこの歌も、そういう諦念と同時に再生を託した歌なのだと思う、『毎日がブランニューデイ』。

https://www.youtube.com/watch?v=gUhfjwXz1MQ&feature=player_detailpage