歌.369 | 春田蘭丸のブログ

春田蘭丸のブログ

願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 干支が一巡して更に半年の歳月に渡って過ごした職場を離れて、今年の四月より現在の職場に世話になっている。通勤手段は前の職場と同じく自転車。距離的にも前の職場と同じくらいなのだろう、自転車漕ぐ時間も片道およそ30分、前の職場と大差ない。
 しかし方角は真逆。
 前の職場は東へ東へ、ひたすら東へ自転車漕ぐに連れて、どんどん街の中央、繁華街へ繰り出してゆく感があったけれど、現在は西へ西へ、ひたすら陽が沈む方角へ出勤するのが、気持ちの問題とはいえ、凋落気分が募って憂鬱これ極まりない。実際、街中へ向かう華やいだ風景と違い、柄の悪い事で地元でも有名な地域へ向かう道のりは、閉塞的な郊外特有の、妙に殺伐と澱んだ雰囲気が感じられて、どうにも馴染み切れない風景に思う。
 川を二つ越えなければならない難儀も含めて、どうにもやりきれぬ通勤ルートなのだけれど、その通勤ルートの途中に教会が建っていて、建物を見上げると屋根の縁に十字架を見る事が出来る。このアメブロでも既に何度か取り上げているけれど、四月以降、通勤の行き帰りにこの十字架を仰いで挨拶したり、内心で語りかけたりするのが、僕の新たな日課となっている。行きは出勤に伴う憂鬱を溜め息まじりに投げ上げつつ、「お願いですから、今日はつつがなく、無事に一日を終わらせて下さい……」と祈りをそっと託したりもしている。帰りは帰りで、とりあえず一日を終えた解放感と共に、「なんとか、今日は無事に仕事を終える事が出来ました……」と安堵の念を述べたりもしている。もちろん無事に仕事を終える事が出来ず、職場で悔しい思いや惨めな思いを味わった際は、尚更その十字架に吐息まじりの鬱屈を託して、己の気持ちに折り合いを付けようとも試みる。
 そんな新たな日課の繰り返しの中で、ふと浮かんだ一首。

十字架は夜露に濡れて月かげの死を問う我に静かにきらめく。

 そう、所詮どれだけ思い詰めた問いを投げ掛けても、十字架は何も答えてはくれない。何処に導いてくれる訳でもない。只そこに、十字架は厳かに掛かるのみである。
 考えてみれば甘えにも似た、愚かで幼稚な習慣である。信仰もないのに事の序でみたいに十字架をうらぶれた日々の慰みに利用している。真剣に信仰に取り組んでいる信者にとっては不愉快この上ない話だろう。僕とて本当は、こんな日課さっさと終わらせて、新たな場所へ逃げ出したいのだ。
 既に異動願いは本部に告げてある。残業なども含めて、もっと稼げる場所へ行かせてくれ……と。実際その願いが聞き届けられて、異動の話が動きかけた事もあるのだけれど、残念ながらその異動話はポシャってしまった可能性が高い。ぬか喜び、という奴である。
 本部も、罪な事をしてくれたものだ。職場を変わる事が出来る。もう間もなく、ここから逃げられる……と一度気持ちが離れた場所に、まだ当分留まらねばならないと知れた時の落胆、そして苦痛の程が如何ほどのものか、本部はちっとも配慮などしてはくれない。
 とりあえず月々の給料の額が一番大切な問題なので、他の愚痴を本部に告げるつもりは更々ないけれど、ぶっちゃけ、給料だけが問題ではないのだ。
 僕が現在勤める職場の雰囲気は、あまりにも荒み過ぎていて、何だか割りが合わないな……って思う。要するに、そういう事なのだ。
 だけど残念ながら、こういう愚痴も十字架に語りつつ、当分は憂鬱な風景の中の通勤を繰り返さなければならないのだと思う。
 この十字架が聳え立つ風景に、一体どれだけの季節が経廻れば、どこかへ逃れる事が出来るのだろう。……この八方塞がりの日常が、このままずっと続けば、本当に死を思い詰める場所へ心が追い詰められちまいそうだ。
 そもそも殺伐と荒んだ西の方角へ向かう機会など、今まではプライベートでも滅多になかったから、意外に自宅の近くに、こんな立派な教会が建っていること事態、それまで全く気づかなかった。しかし気づかずに済むのなら、別にそれでもよかった。