映画『ガタカ』 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 出生の時点で遺伝子の優劣が判明し、その後の人生も決定づけられてしまう非情な世界を描いた近未来SF映画『ガタカ』。公開されたのが1997年というから既に十五年以上の歳月が流れている。故に、現在ここで描かれた近未来は、既にかなり現実と重なり始めているような気もする。映画の中でも主人公が似たような感慨を独白で呟いているが、実際の話、今後は人種差別以上に遺伝子の優劣で差別される世の中へ文明社会は移行してゆくのだろう。
 いや、別にこれは今に始まった話ではなく、クレオパトラの時代から遺伝子学的優劣は厳然たる事実として、いつもクソッタレな世界に存在し続けていたのだ。


 氷河期から失業手当時代に至るまで
 ずっと問題になっていた唯一の関心時
 そして僕はついに発見しました
 ある少女たちは他の少女たちよりも大きいんです
 ある少女たちは他の少女たちよりも大きいんです
 そしてある少女たちの母親は
 他の少女たちの母親よりも大きいんです

 麦酒の木箱を開けながら
 アントニーはクレオパトラに告げました
 ある少女らは他の少女らよりも大きいのだ
 そして尚且つ
 ある少女らの母君は他の少女らの母君よりも大きいのだ


 以前にも一度引用した事がある、80年代イギリスのインディーズ・シーンで一世を風靡したザ・スミスの『サム・ガールズ』。この歌が美しいメロディに乗せて突き付けてくる、遺伝子学的優劣が運命を決定づける厳然たる事実。その残酷な事実を否応なく思い知らされて、それでも、その運命を甘んじて受け入れずに抗い続けようとする遺伝子学的な意味での敗者、つまり不適性者は、地球の何処にも居場所がないような鬱屈とした心情の中で、選ばれし美しいエリート達には決して紡げない切なくも激しい夢を美しく紡ぐ。


 ウィジャボード(こっくりさん)、僕の願いをきいてくれる?
 懐かしい友達に
 こんにちはって言いたいんだ
 ウィジャボード(こっくりさん)、ウィジャボード(こっくりさん)
 願いごとをきいてくれる?
 仲の良かった友達と
 なんとかまた話がしたいんだ
 彼女はこの不幸な惑星からはもう
 いなくなってしまったんだよね
 人々が肉食と破壊にいそしむこの惑星から

 ウィジャボード(こっくりさん)、ウィジャボード(こっくりさん)
 助けてくれる
 今でも孤独でどうしようもないんだ
 ウィジャボード(こっくりさん)
 ウィジャボード(こっくりさん)
 助けてくれよ
 この世界に僕の居場所はないみたいだ
 彼女はもう この不幸な惑星からは
 いなくなってしまった
 人々が肉食と破壊にいそしむこの惑星から

 この声を聴いて
 よーく
 聴いて
 ほーら
 テーブルが回る
 コップが動いてる
 違うよ、僕は押さなかったよ
 字がつながってく、ス…ティ…ー…ブ…ン
 テーブルが回って
 コップが動いてく
 いいや、僕は何も押してない
 あっ…ち…い…け
 彼女はもう この不幸な惑星からは
 いなくなってしまったんだ
 人々が肉食と破壊にいそしむこの惑星から


 ザ・スミスのヴォーカリストだったスティーブン・モリシーがバンド解散後に発表した名曲『ウィジャボード、ウィジャボード』の訳詩である。この歌で吐露される、肉食と破壊にいそしむこの惑星のどこにも居場所がないと思う疎外感ゆえに、ウィジャボード(こっくりさん)を利用して既にこの地球を旅立った魂とコンタクトを取りたいと願う心情と、劣等な遺伝子を持つ不適性者のレッテルを生まれながらに貼り付けられたが故に、地球に絶望して宇宙を夢見た『ガタカ』の主人公の映画ラストの独白は、叙情豊かに哀切に重なる、
「地球には自分の居場所がないとそう思っていたのに、いまは地球を去るのが辛かった。生命(いのち)は宇宙の塵の中から生まれたという。僕は自分の生まれた故郷に還るのかもしれない」。

 幾ら遺伝子を操作しても決して拭い取れない人間の業をスタイリッシュな映像の中で哀感豊かに描いた地味ながらも見所の多い映画だった。ユマ・サーマンは相変わらず存在感があってカッコイイ女だったけれど、絶望を諦念混じりの穏やかさで体言していた車椅子姿のジュード・ロウが良かった。まぁいずれにせよ、この映画の主要登場人物を演じる役者達は皆、遺伝子学的な意味合いに於ける勝者ばかりなのだろうけどね。~勝者が敗者を演じるから美しいのであって、敗者はスポットライトの当たる場所で自己主張しようとせず、闇にうずくまって震えながら啜り泣いていればよい…というのも受け入れ難いが、しかし残酷だけれどそこにも一つの事実が宿っている。そして、その受け入れ難いけれど残酷な一つの事実を出発点に、また別の、新たな美が生み出される可能性もある。