CROWN PLUS Level3 Lesson 4 | どっかの大学生のブログ

どっかの大学生のブログ

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1840年代、謎の殺し屋がウィーンの病院の廊下をうろついていました。多くの女性や赤ん坊が亡くなり、次が誰の番なのか誰も分かりませんでした。手本のような調査を進めていく中で、ハンガリー人の医者、イグナーツ・ゼンメルヴァイスはその殺し屋を見つけ、こんにちでも依然として極めて重要である教訓を私達に教えてくれたのです。
 イグナーツ・ゼンメルヴァイスは、1818年、ブダ市に生まれました。(ハンガリーの現在の首都であるブダペストは、ブダとペストの二つの古い都市から成り立っているのです。ブダの方が小さい市で、ドナウ川の西の丘の上につくられているのです。ペスト市は川の東の低い平地に位置していて、ゼンメルヴァイスの時代には時々ドナウ川の洪水に見舞われたのです。)ゼンメルヴァイスは最初にペストの大学に行き、次にウィーンの大学に行きました。彼は1844年大学を卒業して医者になりました。専攻は出産の学問である産科学でした。
 その当時、ヨーロッパの大抵の女性は家で出産しました。しかし、家で自分たちを助ける人が誰もいない人々や、特別な医学的な手助けを必要とする人々は、赤ん坊を生むために病院に行ったのです。不幸にもこのような女性の多くは産褥熱と呼ばれる病気にかかり、大勢が亡くなったのです。いくつかの病院では赤ん坊を生むために入院した女性の4分の1もの人々が産褥熱で亡くなったのです。
 その病気は全くの謎でした。何が病気の原因なのか誰も知りませんでした。そして、病気の予防や治療の仕方を知っている人は誰もいませんでした。ゼンメルヴァイスやウィーン総合病院の上司を含めた多くの医者が、産褥熱は出産に伴う通常の危険の一つに過ぎないと信じていたのです。それを防ぐために医者が出来ることは何もない、と彼らは考えていました。
 ゼンメルヴァイスの病院では、出産のための2つの部、第一産科部と第二産科部がありました。ゼンメルヴァイスは第一産科部に勤務していて、第二産科部よりもはるかに産褥熱の状態が悪いことを知って悲しく思ったのです。1844年、第一産科部の3157人の母親のうち、260人が産褥熱で亡くなりました。それは8.2%にあたる。次の2年間、第一産科部の数字は6.8%、11.4%でした。しかしながら、同じ3カ年に渡る第二産科部の数字は2.3%、2.0%、2.7%でした。もし、産褥熱が出産に伴う「通常の危険」に過ぎなかったのなら、なぜ第一産科部の方がはるかにひどい状態なのでしょうか。ゼンメルヴァイスは第一産科部でなにが問題なのか解明しようと決心しました。
1つの説はよく分からない伝染病が原因だ、というものでした。ゼンメルヴァイスはすぐにこの考えを拒否しました。なぜ、これらのよく分からない伝染病の影響が病院の外よりも病院の中の方が強いのでしょうか。(産褥熱はウィーン全体としては非常に稀だったのです。)なぜ、第二産科部よりも第一産科部の方が産褥熱の勢いが強いのでしょうか。本当の伝染病ならそれほど選り好みしないはずです。
もう1つの説は過密に原因があるというものでした。しかし、ゼンメルヴァイスは第二産科部の方が第一よりも混雑しているという事実を指摘したのです。なぜなら、患者は悪名高い第一産科部を必死になって避けようとしたからです。食事もまたその原因ではありえないのです。2つの部の患者は同じ食べ物を与えられていたのです。
 その原因は心理的なものである、と考えた人々もいました。患者が死にそうになっている時、牧師が呼ばれるのです。そして、牧師には助手がいて、死にそうな人の所に歩いて行って、鐘を鳴らしたのです。病院の設計が原因で、牧師は死にそうな人が入れられた病室に行くために第二ではなく第一産科部を通らなければならなかったのです。だから鐘の音とそれが引き起こす死の思いから、第一産科部の女性のほうが産褥熱にかかりやすいのだと考えられたのです。
 ゼンメルヴァイスはこの考えを試す手筈を整えました。彼は牧師を説得して鐘を鳴らすのをやめてもらい、第一産科部を避けて病室まで遠回りをするようにしてもらったのです。あいにく、産褥熱にかかる率は高いままだったのです。
 ついに1847年の初め、ある事故によってゼンメルヴァイスは必要とする手掛かりを得たのです。別の医者と1人の学生が死体を調べていて、学生のメスが誤って医者の指を切ってしまったのです。その医者は結局亡くなったのですが、ゼンメルヴァイスが産褥熱で亡くなった女性に見てきた同じ症状の多くを示したのです。
 ゼンメルヴァイスは、学生のメスによって何等かの「死の物質」が医者の血流に入り、それが一種の毒として作用したのだと推測しました。おそらく産褥熱もまた、一種の敗血症ではないのだろうか。
 その当時、医者や医学生が死体の検査から直接、生きている患者の世話に行くのは普通だったのです。彼らは大抵確かに手を洗ったのですが、徹底的に洗うことはなかったのです。そして彼らの手は悪臭を放つことが多かったのです。ゼンメルヴァイスは新しい理論をはっきりと試す機会を設定しました。彼はすべての医学生に死体を検査した後特別な液体に手を浸して洗うように命令したのです。産褥熱の症例はすぐに下がり始め、1848年には第一産科部の発生率はわずか1.27%だったのです。200以上もの生命が救われたのです。
 ゼンメルヴァイスの理論はすべての事実を説明できるのでしょうか。第二産科部の患者は、助産婦によって面倒を見られていました。そして彼女らは死体と共に働くことはなかったのです。第一産科部の患者は医者と医学生によって面倒を見られていました。従って、ゼンメルヴァイスの理論は第一と第二の違いを非常にうまく説明してくれたのです。
もう1つの奇妙な事実がありました。それは産褥熱で死んだ赤ん坊は、出産の前にその病気にかかった母親から生まれたのが普通であったということなのです。生まれた後で母親がその病気にかかった赤ん坊は大抵、生き残ったのです。ゼンメルヴァイスの理論はこの事実をも説明したのです。彼は、その病気は血液を通じて母から子供へ伝えられるのだと言ったのです。
 おそらくゼンメルヴァイスの考えは現在の私達にとって明らかなように見えるのです。しかし、その当時この考え方は非常に奇妙で新しいものに見えたのです。ゼンメルヴァイスの上司は強く彼の考えに反対し、ゼンメルヴァイスはまもなくウィーンを去ってペストに戻りました。彼の考えはハンガリーと若いオーストリア人の医師の間で受けいれられましたが、大抵の権威筋は拒絶しました。彼は母親や赤ん坊が不必要に死ぬことに対して憂鬱な気持ちになり、そして1865年には彼はすっかり健康を害してしまったのです。
しかし同じ年、ジョゼフ・リスターはゼンメルヴァイスの考えを事故や外科の手術によって開いた傷口に応用し、これによってより多くの生命が救われたのです。リスターはゼンメルヴァイスについて次のように言っています。「私は大いなる称賛の気持ちを持って彼とその業績について考えざるを得ないのです。そして、最後に彼が当然受けるべき尊敬を得られたことを思うと、私は喜びで胸が一杯になるのです。」もちろん、こんにちではみんな医者や病院はことの他、綺麗でなければならない、ということを受け入れているのです。
 しかし、この物語から学ぶべきもう一つの教訓があるのです。ゼンメルヴァイスは医学において、科学的な研究をどのように行うか私達に教えてくれたのです。彼は注意深く可能な原因をすべて挙げ、知られている事実や注意深く計画された実験に照らし合わせて1つずつこれらを検証したのです。明瞭な思考や組織的な方法により、彼は混乱や無知、偏見を乗り越えて、何千人もの女性を殺した真の殺し屋のところにたどり着いたのです。しかし、その殺し屋が自分自身であったことが分かったときの彼の驚きを想像して御覧なさい。