西暦79年8月の夏の日のことだった。地味なチュニックを着た若い奴隷の少女は暑さと不快を感じていた。ポンペイの郊外にある壮麗な邸宅に住んでいた裕福なローマの女性である彼女の女主人は、彼女に町の反対側に緊急の使いに行くように命令したのだった。その子はお使いをすることに慣れていた。そして、狭い道に通じるすべての近道を知っていたのだった。おそらく、彼女は、急げば、広場を散歩したり、店を覗いたり、泉から冷たい水を飲んだりする時間があるだろうと思ったのだ。
突然、耳をつんざく様な爆発が起こった。そして、その少女は危うく地面に投げ出されるところだった。彼女が、近くの壁にしがみついた時、いつもは町を見下ろしているように見える火山のヴェスヴィオス山が、ぼんやり姿を現していくのが見えた。山の上には巨大で汚い白い雲があり、彼女の周りにいるすべての人は、恐怖で叫んだり、かなきり声を上げていた。
雲は太陽を横切るように漂い、町を夜のように暗くした。そのときまでにはもう、その奴隷の少女は、女主人のことも、お使いのことも、忘れてしまったのだ。外にある通りで閉じ込められた何百人もの他の人のように、彼女が唯一考えたことは、自分自身を守ることだった。彼女が振り返り、走り出したとき、空は灼熱の小石を降らせたのだ。彼女のそばに、一人の男が落ちてきた岩に当たって意識を失い、地面に倒れこんだ。その時、彼女はまるで、渦巻く吹雪の中を懸命に進んでいるかのようだった。それは、彼女が、ヴェスヴィオス山の上に垂れ込めていたのを見た、あの息の詰まりそうな、焼けた灰の死をもたらす雲が、今、町の上に降りかかってきているのであった。火山の有毒な煙霧が、肺と目を焼き、少女は自分ができるただひとつのことをしたのだ。彼女は地面に倒れこんだ。そして、鼻と口を服で覆ったのだ。数分以内で、彼女の生命のなくなった体は、灰で覆われたのだ。ポンペイの町全体は、彼女とともに埋もれてしまったのだ・・・。
今日では、ポンペイのような繁栄した賑やかな都市が、火山のふもとに作られることがあるなどとは、信じられないように思えるのだ。しかし、ポンペイは、青い空、穏やかで暖かい気候、きらめく海で有名な、ナポリ湾に望む、美しいカンパニア州にあったのだ。人々は、そこに住むことをとても切望していたので、火山の側でさえも、農場やヴィラがたくさんあったのだ。それらを所有していた金持ちの家族は、火山を高価な不動産の1つとして見なしていたのだろう。ヴェスヴィオス山は、何百年もの間、ごろごろ鳴ることさえしなかった。なので、誰もが、それを休火山だと思っていた。
62年に、ポンペイは、激しい地震に揺さぶられて、街の大部分は破壊された。今日では、その地震は、ヴェスヴィオス山が、目覚めつつある兆候だと思っている。しかしポンペイの人たちは、その地震が、人々は立ち去りなさいと言う神からの命令であったということを知るすべはなかったのだ。彼らは、瓦礫を片付けただけで、町を再建し始めた。17年後、火山が噴火したとき、建物の中には、なおも修復中のものもあったのだ。
ヴェスヴィオス山は、79年8月24日昼ごろに噴火した。ポンペイと近隣の町に住む人にとって、それは彼らの生活を、台無しにするような災害だったのだ。彼らの持っていたすべてのもののほとんどは、失われた。後に、何人かの人々は、家財を救い出そうとしたが、地震と噴火の後で、彼らの大部分はただ、意気消沈しただけだった。生き残った市民たちは、ネオポリス(現在のナポリ)のすぐ近くに家を与えられた。その町を再建するという皇帝の約束は、都合よく忘れられてしまった。ポンペイは見捨てられ、町を覆っていた火山灰は、そのまま固まって岩になったのだ。
何世紀もの間、ポンペイの埋もれた町は眠っていた。そのあと、1709年に、宝探しの人たちは、ヘルクラネウムの近くを発掘し始めた。これらの人は、実際は考古学者の人ではなかった。彼らは後に、ポンペイの発掘に財産支援をしたカルロス3世のような裕福なコレクターに売ることができる価値のある遺物に、興味があっただけだ。しかし彼らの仕事は、その火山地帯に、世の中の注意を引いたのだった。ヘルクラネウムの発掘が、困難になったとき、その上に現代の都市が建てられたので、宝探しの人たちは、自然と、自分たちの努力を、地元の人がラ・チビタと呼ぶ小山に向けたのだ。
ほぼ1700年後、ポンペイは再び発見されたのだ。幸運にも、必ずしもすべての人が宝物を見つけたとは限らないのだ。宝探しの人たちの、発見の噂が広まるにつれて、ヨーロッパ中の学者たちは、ポンペイがローマ帝国における日常生活について、彼らに教えることができるものに興味を持つようになった。その次の一世紀をかけて、考古学者のチームは徐々に、その町を発掘した。そして最後の恐ろしい日に、住民がしていたことの詳細をつなぎ合わせたのだった。
ヴェスヴィオス山はあまりに思いがけなく噴火したので、人々は完全に不意を付かれたのだった。彼らは、毎日の仕事、買い物、友人や親類を尋ねること、家事をすること、昼食を食べることさえ、精を出していた。大急ぎで逃げようとして、住人たちは自分たちがしていたことを、ただそのままにして、自分たちの家財道具をほとんど置いて、走り出したのだ。これが、考古学者たちが、その遺跡がとてもわくわくすることに、気がつく理由なのだ。ポンペイの家や町は、個人の所有物、例えば、家具、鏡、化粧品の瓶、装飾品、そしてパピルスの巻物という形での古代の本、で満ち溢れていた。食べ物でさえ見つかった。その町を発掘している考古学者たちは、81個の半分焼けたパンを、パン屋のオーブンの中で、完全に保存された状態で、発掘されたのだ。
ポンペイは、ものすごく大きい町ではなかった。しかしそれは多種多様の施設を持っていたのだった。公共広場、店がある主要な商業地区、人々が神々にいけにえをささげる神殿、男女兼用の公共浴場、そして劇場。その町の東の端には、遣唐使が、ライオンや像などの野生動物、そして時にはお互いが、死ぬまで戦った円形競技場があったのだ。新聞が存在する前のこの頃、建物の壁は公示を書くために使われていた。例えば、熊との戦いが地域の円形競技場で行われる予定であること、あるいは、投票者たちは来る選挙で、ウェティウス・フィルムスか、ユリウス・ポビリウスを、選ばなければならなかった。その壁は落書きで覆われてもいたのだった。何百もの下品な冗談と、いたずら書きが、ポンペイのいたるところで、ポルトゥムヌスは、アンフィアンドラが好きだとか、ヤヌアリウスは、ウェネリアが好きだ、のように噂話の様に見つかるのだ。
ある落書きを書いたものが少しの詩を書いた。
―壁よ、お前が、ぐしゃっとつぶれないのは不思議だ、こんなにものすごい戯言の重みに、耐えなければならないのに―
しかしながら、おそらく、ポンペイで最も目立った発見といえば、その住民たちである。彼らのうちのおよそ90%が、幸運にも逃げ出すことができた。亡くなった人のほとんどは、地下室や家の中にとどまって、その災害を、じっと座ってやり過ごそうとした人たちであった。(一人の男は刑務所に入れられて、忘れられていたためになくなった。)19世紀に、考古学者のジュゼッペ・フィオレリが遺跡を調査しているとき、町を覆っている岩に、たくさんの不思議なくぼみを見つけたのだ。興味を引かれて、彼は、これらのくぼみのうちの1つに、漆喰を流し込んだ。そして岩を削り取ってみた。彼は驚いたことに、気味の悪い死体の鋳造を見つけたのだ!火山からの灰が死体の周りで固まって岩になり、鋳型を形造ったのだ。死体はその後、腐って消滅したが、姿は岩の中に残り、衣服や顔の特徴、そして髪型さえも示しているのだ。
フィオレリが見つけた人の中には、宝石を集めようとして、長い間とどまっていた金持ちの女性や、幼い女の子を家の中に押し込め、毛布や枕で煙をさえぎろうとしたが無駄であった父親などがいた。他の家では、2人の幼い男の子たちが(おそらく兄弟であろう)お互いに抱き合って亡くなっていたのだった。最もかわいそうな発見の一つは、火山が噴火したときに、飼い主に見捨てられた犬だった。それは、つながれていて、首輪と鎖がまだ首に巻かれた状態で見つけられた。